朝日新聞と自由主義史観論争

吉田千恵

はじめに

　1996年から1997年にかけての自由主義史観論争に関連した、朝日新聞の記事を分析し、当新聞が、マス・メディアとしてどのような立場で報道していたのか、検証したいと思う。
　まず、論争自体が一般記事の中でどう報道されたかについて、全体の流れを追ってみる。次に、自由主義史観運動、教科書、慰安婦、政治家の発言などの各問題について、社説、特集、論壇、コラム、読者の投稿などを分析することによって、朝日新聞の全体としての論調を把握していきたい。

1.全体の流れ

　まず、96年5月から7月は、板垣参議院議員の「慰安婦は歴史の真実でない」という発言、奥野元司法大臣の「慰安婦は商行為」という発言が相次ぎ、韓国、北朝鮮、中国の団体や、市民団体が抗議したという記事が続く。
8月には藤岡・東大教授の自由主義史観研究会が大きく紹介された。
　 9月、自民党が選挙公約に、高校教科書検定廃止を盛り込む、2日後に撤回ということが書かれた。このあたりから、従軍慰安婦の記述をめぐって、激しい論争が紙面で繰り広げられていく。
　97年1月、江藤代議士の、日本の植民地支配について「町村合併と差あるか」との発言や、櫻井よし子氏の、「慰安婦問題に徹底した情報公開を」との趣旨の投稿が掲載されている。
　2月には、島村元司法大臣が「望んでなった慰安婦もいた」という発言の記事。それ以後、一般のニュースとして、論争に関連するものは少ないが、「教科書の教えない歴史」などの自由主義史観を掲げる書籍がベストセラーになっていることに批判的な書評や、自由主義史観研究会の運動をあからさまに非難する投稿などが多く見られる。
　朝日新聞の論調を把握するために、以下の社説、特集、投稿、コラムなどを主に用いた。

社説

97・1・5「人を飛蝗にしてはならぬ、操られやすい民族感情」
97・1・7「『自己愛』社会の索漠、若者と大人とモラルと」
97・1・19「『償い』を実らせるために」
97・3・31「歴史から目をそらすまい」
97・4・2 「なぜ歴史を学ぶのか」　

特集

96・8・17 戦後51年の夏から藤岡・東大教授の自由主義史観研究会
97・2・1 探求・記者の目最近の「従軍慰安婦」論争
97・3・31 従軍慰安婦消せない事実政府や軍の深い関与
97・8・8 「この国」を想う① 従軍慰安婦と教科書
97・8・11 「この国」を想う③ よしりんウォッチ
97・8・12 「この国」を想う④ 「違法教科書訴訟原告団」
97・8・14 「この国」を想う⑤ 歴史教育「削除」要求を文相拒否
97・8・26 ポリティカにっぽん終戦から52年目の夏が過ぎ行く　

投稿・論壇

96・10・15 歴史認識を投票のよりどころに (大沼保昭東大教授)
97・1・22 慰安婦問題に欠かせぬ情報公開 (櫻井よし子)
97・2・6 元慰安婦の証言に耳を傾けるべきだ (芹沢昇雄)
97・2・24 慰安婦問題の論議は世界の土俵で (辛淑玉)
97・2・27 歴史教育論争「解釈の歴史」学ばせては (山崎正和)　

書評・コラム

96・10・13 「教科書が教えない歴史」 (橋爪大三郎)
97・2・2 自虐的なのはどっち (鵜飼正樹)
97・6・8 ナショナリズムを巡って (吉見俊哉)
97・6・24 伝えたい歴史の明暗 (小島朋之)
97・8・24 成熟への道行きは可能か (赤坂憲雄)
97・9・16 「ねじれ」の構造壊すために (加藤典洋)
97・10・19 教科書が教えない (鵜飼正樹)
97・11・10 誤り認める「羞恥心」を (鵜飼哲) 　

2.各論点ごとの分析：自由主義史観運動

自由主義史観研究会について、特集「戦後51年の夏から」で取り上げられている。そこでは、藤岡氏の主張のほかに、3人の学者たちの批判的なコメントが添えられている。「藤岡氏は天才的なアジテーター」「80年代のタカ派知識人たちと同じ」「相手の主張に一点でも非があればたちまち全体が説得力を失うディベートは、一つ一つの史実を積み上げていく歴史学とは異質」「研究会はいまや政治運動体。暴走をはじめたのではないか」などである。また、最後は、研究会の会員である二教師が、自由な議論を交わせなくなった研究会に疑問を感じているコメントで締めくくられている。研究会側は藤岡氏のみのコメントであるのに対し、それを批判する側は3人という多勢である。その上、研究会内部からの運動に対する批判的な疑問を取り上げれば、読者は藤岡氏の研究会に対して、好印象は抱かないだろう。
97年1月5日の社説は、かなり痛烈に自由主義史観を批判している。まず、セルビア共和国のミロシェヴィチ大統領を、民族感情を操るアジテーターだと非難し、そのような独裁者の言いなりになる支援者が独裁を助けているのだという。その上で、日本の戦争責任についても、いわば自家製の応援団がいるとし、「自分だけではないという自己弁護は見苦しい。叱られた子供が『僕だけじゃない』とすねるようなものである。そのような民族感情をもてあそぶ行為を許してはならない。」と自由主義史観運動を非難している。
また、自由主義史観を主張する本についての書評では、「『自虐史観』だと批判する人々の方が『自虐的』に見えてしまう。」ともある。

教科書問題

　96年10月13日のコラム「売れてる秘密」では、橋爪大三郎氏が、「教科書が教えない歴史」を取り上げている。橋爪氏は、この本を、「歴史の複眼的な見方は示している。」と、一定の評価はしているが、「健全なナショナリズムのための第一歩ではあるが、まだ先は遠く、方向もこれで正しいのかは疑問である。」と含みを残している。
　97年1月7日の社説では、「教科書が教えない歴史」には、「理不尽な民族同化主義を取った植民地政策への反省や批判の姿勢はどこにもない。」とし、自由主義史観は、「こんな人間もいた」「こんないいこともした」という「自己愛」史観だと断じている。
　 97年8月の特集「『この国』を想う」の４回目では、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」などの記述のある教科書を「思想偏向した教科書」として、訴訟を起こしている「違法教科書訴訟原告団」が取り上げられている。その裁判のきっかけになった教科書のコピーは藤岡氏からのものらしいとしている。
　この特集の6回目「歴史教育」では、教科書からの「慰安婦」の「削除」を小杉文相が拒否したエピソードが書かれている。96年12月、中曽根康弘元首相が、新しい教科書をつくる会」会長・西尾幹二氏を、小杉文相に紹介し、西尾氏は「慰安婦」削除を文相に要求したが、文相は拒否した。
　　それを受けて「つくる会」は、削除を求める緊急アピールを出したのである。そのアピールを見て退会した、元会員の高校教師のコメントが紹介されている。また、「削除」を求めて活動してきた政治家たちも、「削除」の前に立ちはだかる、予想外の「壁の厚さ」を実感しているという。どちらも、「削除」をを求める運動が、順調ではないことを読者に感じさせる記事である。
　一方、特集「探求・記者の目」は少々異なる。「今回の『従軍慰安婦』論争は、過去の第１次、第２次に比べてより複雑になっている。」とし、「教科書の検定制度があるから『従軍慰安婦』の記述は国家の正統事実として認定されてしまう。歴史教科書は自由発刊、自由採択にして、対立点はそのまま教える時が来ているのかもしれない。」と、論争自体を一歩ひいた立場から客観視している。

慰安婦問題

　97年1月19日の社説では、「償い金」の円滑な支給のために、政府がその環境を作っていくべきである、としている。「しかし自民党内からは、教科書の従軍慰安婦に関する記述の削除を求める声が公然と出され、朝鮮半島の植民地支配を正当化するような、長老議員の発言も繰り返されている。しかもこうした動きを党執行部は放置したままだ。」と、政府を批判する。
　また、特筆すべきは、前年12月に「日本軍による、慰安婦の強制連行はなかった」と発言したことについて批判されていた、櫻井よし子氏の投稿が1月22日の「論壇」に掲載されたことである。
「慰安婦になるように強制された女性がいたことは事実だが、それが日本軍による強制連行であったかは疑問である。その具体的な証拠があるなら公開して欲しい。その上で明らかになった事実はきちんと受け止める。私たちには事実を知る権利と、事実を学ぶ義務がある。また、適切な判断は、事実に基づいてのみ可能である。よって、政府に対し、情報公開を強く求める。」と、櫻井氏は主張している。
　このような、慰安婦の強制連行を否定する内容の投稿を掲載したのは、主なものでは、これが初めてだろうと思われる。いくら投稿とはいえ、その取捨選択ににおいては、ある程度恣意的になり、選択者の主観が反映されるものである。この投稿が掲載されたことから、朝日新聞内の論調が自由主義史観的な方向に変化してきているのかもしれないとも考えられたが、そうではなかった。これ以降、この櫻井氏の主張に批判的な投稿が、多数掲載されたが、賛同する投稿は全くといっていいほどなかったのである。　櫻井氏への反論としてはまず、2月6日の芹沢昇雄氏による「論壇」への投稿がある。芹沢氏は、「元慰安婦の証言に耳を傾けるべきだ」と題し、「強制連行が軍の統一方針ではなく、関連資料は極秘扱いでそれらは、敗戦時に証拠隠滅のために廃棄されたか、敗戦の混乱で紛失したと考えるのが適当である。したがって、資料が見つからないといって、その事実まで存在しなかったことにするのはおかしい。また、情報公開といっても、政府が不利な情報を積極的に公開するわけはなく、われわれ一人一人が、真実を解明する努力をするべきである。」と、櫻井氏に反発する。
　 2月24日の「論壇」でも、辛淑玉（シン・スゴ）氏が、櫻井氏の投稿を含め、自由主義史観運動を批判している。
　「自由主義史観運動などという、日本の罪悪感を少しだけ払拭したいという行為は、アジア諸国に多大な不信感を与えるもので、非生産的な内向きの行為である。『私の知る限り資料がない』というジャーナリストや、慰安婦問題を題材にしている漫画家、自虐史観を克服したいとする人たちの主張は、世界の土俵では通用しない。日本国内でしか通らない議論を続けることは恥ずかしいことだ。」と、櫻井氏や、小林よしのり氏を非難する。
　さらに「従軍慰安婦問題は、どこをどう解釈しても、日本がのびやかになれる点はみじんもない。」と、櫻井氏の自著「直言―日本よ、のびやかなれ」を引き合いに出しても批判し、「だからこそ、国際社会のルールにそって、国家の責任ときちんと向き合わなければならない。」と主張している。
　また、櫻井氏への反論として、一般読者からの投稿も多くあった。（「声」の欄）
　 97年3月には、従軍慰安婦についての大々的な特集が組まれている。見開き1ページのその特集は、「従軍慰安婦消せない事実政府や軍の深い関与、明白」と、大見出しが目に付く。
　主な内容は、
1.元慰安婦3人の証言
２．河野洋平元官房長官のインタビュー
３．従軍慰安婦が政府や軍の強制だったという事実の論証
４．慰安所の場所や、慰安婦訴訟を起こしている元慰安婦の人数などのデータマップ
５．新学期から採用される教科書の「慰安婦」に関する記述一覧
などである。
　　なかでも、従軍慰安婦が軍による強制だったという証拠として、
・慰安婦の輸送や移動に、政府や軍が指示したり、便宜を図ったりするための文書が残っている。
・軍が民営の慰安所に物資を調達し、あるいは軍直営の慰安所もあった。・「強制」を「強制連行」に限定する理由はない。甘言や、強圧など、本人の意思に反し、自由を侵害した場合は強制があったといえる。
などが挙げられている。
　　また、河野氏はインタビューにおいて、93年に出された「河野談話」をふまえ、「元慰安婦の証言は、被害者でなければ語り得ない証言であり、強制的に連れて行かれたものと思われる。まずそういった事実を認め、その事実をいつ教えるかという教育技術の問題は別に議論すればよい。」と語っている。　

政治家の発言問題

96年10月15日の「論壇」では、大沼保昭・東大教授が、「歴史認識を投票のよりどころに」と題し、慰安婦などに関して問題発言が相次ぐ内閣を批判している。
　氏は「『大東亜戦争』や植民地を正当化する政治家や、『慰安婦』をうそつき呼ばわりする政治家のいる内閣は問題である。そうした政治家を批判し、歴史認識の重要性を説く政治家を、選挙によって選ぶべきである。」と、主張する。

総括論

自由主義史観論争そのものを論じたものとして、97年2月の「論壇時評」の山崎正和氏の意見に注目したい。
　氏は、今の論争を、「互いに『自虐史観』『侵略史観』と呼び合って、情緒的な史観論争に飛躍している。」と批判する。
　また、「歴史が記述である以上、解釈のない歴史そのものを語ることはできない」のに、政治的な歴史認識と歴史教育が混同されている。」とも言う。さらに、以下3人の、歴史教育に関する見識を紹介している。
　林健太郎氏「検定教科書の存在を肯定した上で、史観への先入観を抑えて、より精密な史実が必要である。」
　長山靖生氏「歴史は物語から、歴史教育は倫理教育から解放されねばならない。」
　加藤典洋氏「歴史上の悲劇は、より距離をおいた、かわいた「語り口」「公共性」の立場で語るときに、正確に意味付けられる。」

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