倉富日記大正八年十月三〇日条に以下のような記事が見える。
○午後三時後宗秩寮ニ到リ仙石政敬ニ遇ヒ、閔丙奭、尹徳栄カ辞職シタルコトニ付、寺内正毅ヨリ長谷川好道ニ意ヲ伝ヘ、長谷川ヲシテ李太王ニ説カシメタルコトアルモ、太王ガ之ヲ諾セサリシ故、其事ヲ秘スル為メ尹徳栄、閔丙奭等ノ太王ヲ毒殺シタリトノ風説アリトノ話ヲ聞キタルモ、寺内ヨリ長谷川ニ話シタリト云フ事柄ヲ聞カス。君ハ之ヲ聞キタルコトナキヤト云フ。仙石之ヲ聞カス明後日田中遷カ来ルコトニナリ居ル故之ヲ問ヒ見ルヘシト云フ。
この年の初めに死去した李太王の死因につき、朝鮮では李王の側近につかえる閔丙奭（李王職長官）と尹徳栄（同賛侍・掌侍司長）が毒をもって殺害したとの噂がとんでいたが、その件に寺内正毅（元朝鮮総督）と長谷川好道（前朝鮮総督）の二人が関与しているとの噂を聞き込んだ倉富は疑問に思って、宗秩寮事務官の仙石に、そのような噂を聞いたことがないか、尋ねてみたのであった。
倉富が聞いた噂では、寺内が長谷川に何ごとかを指示し、寺内の意を受けた長谷川が李太王に何ごとかを迫ったが、李太王がそれを拒否したので、そのことを秘匿するために尹と閔の二人が、李太王を毒殺したという内容であったらしいが、寺内と長谷川がいったい何を李太王に迫ったのか、肝心のその内容が不確かなので、疑問に思ったのであった。
それに対する仙石の返答は、そのような噂は聞いたことがない。明日、李太王の側近に仕えていた田中遷（李太王附事務官）に会うので、尋ねてみることにしよう、というものであった。
仙石に尋ねてもわからなかったので、倉富は翌11月１日に石原健三宮内次官に同じ事を聞いてみた。石原の答えも仙石と同じで、そのような話は聞いたことがないというものであった。この時倉富は石原に、「閔等ハ毒殺云々ノ風説ノ無根ナルヲ明カニスルコトヲ望ミ辞職ハ其本意ニ非サリシニ予期ト違ヒ免官トナリタル為メ非常ニ不満ヲ懐キ居ル趣ナリト云フ」と、述べている。
閔と尹は三・一運動との関係で、それぞれ辞職および辞爵を申し出たが、内心は毒殺説の疑いをはらすために、辞表が却下されるのを望んでいた。にもかかわらず、日本側がそれを受理して辞めさせてしまったので、非常に怒っていると言うのである。詰め腹を切らされた閔と尹が日本側の処遇に不満を抱いているという話を倉富が聞いたのは、宋秉畯からであった。10月26日に伊藤博文の10回忌に出席した倉富は、宋に会って、「朝鮮ノ近事ヲ談シ」「閔丙奭、尹徳栄ノ辞職ニ付テハ閔尹トモ非常ニ怒リ居ル」ことを聞かされたのであった。このことから、倉富の耳に寺内と長谷川の件を入れたのは、宋秉畯であったと思われる。
この件について、倉富にいちおう説明らしきものを与えたのは、李太王附事務官であった田中遷である。11月3日に宮内省で田中に会った倉富は、「朝鮮ニテハ尹徳栄等ガ李太王ヲ毒殺シタリトノ風聞アリタル由ナルカ其原因ニ付テハ如何ナルコトヲ云ヒ居ルヤ」と質問した。田中の説明は以下のようであった。
「或人カ李太王ノ署名捺印シタル文書ヲ得テ巴里ノ講和会議ニ赴キ、独立ヲ図ラントセシニ、閔丙奭尹徳栄宋秉畯等カ太王ヲシテ署名捺印セシメサリシカ、愈々独立カ出来ル様ニナレハ閔等カ立場ナキコトニナル故之ヲ殺シタリトノ風説アリタリト云フ。」
つまり、パリ講和会議に密使を派遣して、朝鮮の独立を訴えようとしたある人物が、李太王の親書を密使に持参させるべく工作をしたが、閔丙奭尹徳栄宋秉畯などがそれを妨害したためにはたせなかった。閔、尹、宋等はそのことが発覚するのをおそれて、李太王を毒殺したという噂が流れているという説明である。ただ、寺内、長谷川の関与にはふれていない。
倉富の聞いた噂の真否はともかくとして、はたして当時そのような噂がほんとうにささやかれていたのか。興味深い問題である。京都大学人文科学研究所の李昇燁助手が当時広まっていた噂について、調べてくれたので、紹介しておきたい。
『倉富日記』大正八年十一月分に登場する、李太王の薨去と閔丙奭、尹徳栄関連説について調査してみました。
（１）まず、李太王の死因に関しては、次のような様々な噂がありました。日本の朝鮮統治への不満による「自殺説」、同じ不満による「憤死説」、李王世子と梨本宮女王との結婚に対する不満による「自殺説」などです。何れも民衆の強い「反日」感情による者と見られますが、閔・尹による「毒殺説」は見つけられませんでした。
「廉水地方ニハ李太王殿下ノ薨去アリタルハ誠ニ突然ノコトニシテ御病気トハ信ジ難ク御高齢ノコトナルモ殿下ハ内心日韓併合ヲ恨ミトシ国権恢復ヲ企図セラレタル趣ナレバ或ハ時勢世運ノ推移ニヨリ到底日本ノ勢力ニ及バザルヲ以テ悲嘆ノ余リ自殺セラレタルモノナラムトノ風説アリ。」（姜徳相編『現代史資料』25、76頁）
「長城郡長城面鈴泉里 具泰京 右ハ今回李太王ハ世子ト日本皇族トノ婚儀ヲ不満トシ多量ノ金ヲ服用シテ自殺サレタリ。又薨去当日ヨリ京城ニ於テハ李太王ノ薨去ヲ海外鮮人ニ知ラシメザル手段トシテ内地、外国ヘノ電報ヲ差止メ厳ニ警戒シ居レリ云々」（同、76～77頁）
「平山郡宝山面漢文私塾教師李範周ハ殿下薨去ノ報ヲ聞クヤ生徒ヲ集メ殿下ハ併合後一日トシテ心安ク其ノ日ヲ送ラセ給ヒシ事ナシト聞ク。所謂万民ノ悲境ヲ憐ミ其ノ疲労ノ結果突然薨去セラレタルモノナルベシ。」（同、78頁）
「安岳郡安岳面金庸済其他二三ノ有力者等曰ク殿下ノ薨去ハ王世子殿下ノ婚儀ヲ不満トシ自殺シタルモノナルベシト云フモノアルモ殿下ノ気性トシテハ自殺スルガ如キコトアル筈ナシ。若シ自殺シタリトセバ精神ニ異状ヲ呈シタルニ由ルナラン云々。」（同、81頁）
「海州、載寧、白川、黄州、南川、鳳山、延白地方ノ一部民間ニハ殿下ノ薨去ハ御病死ニアラズ或ハ自殺セラレタルニアラズヤトノ風説アリ。其ノ理由ハ殿下ハ平素内心日韓併合ヲ頗ル不満ニ思召サレアリテ近ク世子殿下ノ御慶事行ハルヽハ表面喜悦アラセラレタルモ内心之ヲ遺憾トシ憤慨セラレ居リタルニ基因スト云フニアリ。」（同、81頁）
（２）一方、近臣による「毒殺説」もありましたが、それは李王世子の結婚に反対する「憂国の壮挙」として噂されていたようです。
「平山地方ニハ殿下ノ薨去ハ病死ニアラズシテ全ク奸臣ノ奇計ニヨリ毒殺セラレタルモノナリト云フモノ多シ。其ノ理由ハ近臣中最モ排日思想盛ナル者ニシテ目前ニ迫リ居ル王世子殿下ノ御婚儀ハ朝鮮最後ノ運命ヲ決定スルモノナリトテ其ノ結婚ノ不利ナルヲ説キ李太王ニ対シ再三諫言シタルモ用ヒラレザリシ為遂ニ憂国ノ臣二、三ハ女官ト謀リ御食事中毒薬ヲ混入シ、之ヲ進メ参ラセテ殺害シ王世子殿下ノ婚儀ヲ延期セシメタルモノナリトノ風説アリ。」（同、81頁）
（３）さて、閔・尹の関連については、『倉富日記』の記述とはまったく異なりますが、当時朝鮮の屈指の知識人の一人であった尹致昊の日記に次のような記述があるので、注目されます。
（原文は英語。和訳には金相泰氏の韓国語訳をも参考しました。）
[…]前皇帝が[李王世子の]結婚式四日前に薨去したため、自殺であるとの噂が広がっている。まさにナンセンスだ！[…]
The death of the Ex-Emperor occuring just four days before the wedding has given rise to a rumor that he committed suicide. Nonsense! He swallowed the camel of humiliation and then strain at a gnat of disappointment. Besides, the wedding between the young Prince and the Japanese Princess is undoubtedly one of the best things that could have happened to the Yi Family. It strengthens the amicable relations between the two Imperial families while the Prince gets a bride who in grace and gifts excels any girl whom he might have chosen among the Koreans. All agree that had the Ex-Emperor died before the annexation he would have gone unwept; and that the people are weeping for themselves and riot for him!
[…]扇動者たちがかかる噂を流している。尹徳栄、韓相鶴等が食醯[朝鮮の甘酒：李注]に何かを入れて前皇帝を毒殺し、尹徳栄、李完用、韓相龍、趙重応、申興雨等が、朝鮮人が日本の統治に満足しているとのことを証明するため、或る文書に署名したということである。[…]
The agitators circulate the statements that the Ex-Emperor was poisoned by 尹德榮, 韓相鶴 by putting something in 食醯, and that a document was signed by 尹德榮, 李完用, 趙重應, 韓相龍, 申興雨 to prove that the Korean people are happy and contented with the Japanese administration.
閔丙奭と尹徳栄が徳寿宮、すなわち前皇帝の宮殿と永成門内側の土地を日本人に売却したという。この卑劣な売国奴の表現に値する単語は、ウェブスター辞典にもない。
Hear Min Pyeng Suk and Yun Duk Yung have sold 德壽宮, the Ex-Emperor's Palace and its adjacent land inside of 永成門 to the Japanese. I can find no word in the Webster's Unabridged Dictionary bad enough to describe these vile traitors.
私は、去る二月までも前皇帝に関する噂を信じなかった。そうする動機がなかったと思った。しかし、最近閔丙奭、尹德榮一派が前皇帝の最後の住居であった徳寿宮を日本人に売却してしまったのである。私も今やその噂を信じるようになった。この悪党連中は自分の利益のためには何でも出来る卑劣なやつらである。彼等がお金を欲しがっている時には、李王世子や李王の身辺を警戒すべし！あの連中は甘い飲み物で李王世子や李王を除去するかも知れない。それから、昌徳宮を売却して良いコミッションを取ることが出来るのであろう！
I didn't believe in the story of the Ex-Emperor last Feb. I thought it was unnecessary. But now that 閔丙奭, 尹德榮 and Co. have sold 德壽宮, the Ex-Emperor's last residence to the Japanese, I am inclined to believe that story. These dirty rascals are mean enough to do anything for their pocket's sake. When they need some more money, look out Prince or King Yi Jr.! They could get rid of him with a sweet drunk. Then they can sell 昌德 Palace, for a good commission!
つまり、閔・尹両人による「毒殺説」は、当時の朝鮮社会にかなり広がっていたものの、その「動機」については様々な噂が流れていたと見られます。「李太王―独立運動関連説」は、『倉富日記』でしか見られない記述といっていいでしょうか。
