戦後マルクス主義史学とアジア認識

―「アジア的停滞性論」のアポリア―

永井　和

はじめに

今、私の目の前に二冊の書物が置かれている。小谷汪之が「バランスのとれた戦後日本史学史として、次の二著は必読といってよい」⁽¹⁾と評価した、遠山茂樹『戦後の歴史学と歴史意識』（岩波書店、一九六八年）と成瀬治『世界史の意識と理論』（岩波書店、一九七七年）の二著である。

あとで後ろ指をさされることのないよう、前もって正直に告白しておくと、小稿はじつはこの二つの著名な先行業績を「タネ本」にしている。私の主たる問題関心は、敗戦後からスターリン批判までの約一〇年間、いや、一九七〇年代末までの約三五年間といったほうがよいかもしれないが、ともかくも戦後歴史学の主導的歴史理論・分析方法として学界に絶大な権威を有してきたマルクス主義史学、その「世界史の理論」ないし「歴史の発展段階論」が、いかにして破綻・解体していったのか、その軌跡をあとづけるところにおかれている。

ことがらの性格からして、小論でとりあげられるのはもっぱら広い意味での「戦後史学史」の領域に属する問題とならざるをえない。ところが、はなから史学史に疎い私には、これはなかなか厄介な仕事であって、古雑誌のバック・ナンバーをにわかに読み漁ったり、大家の全集、著作集をひっくりかえして、書誌を確認したりしても、所詮泥縄で、いまさらながら日頃の不勉強ぶりをかこってみても、すでに手遅れであった。

結局、何らかの優れた先行業績に助けを仰いで、導きの糸としなければ、どうしようもない状態におちいってしまったのである。そんな私にとって右にあげた遠山と成瀬の二著は文字どおり「救いの神」であった。戦後史学史の大きな流れはもちろんのこと、基本的な史学史的事実についても小論はこの両書にほぼ全面的に依拠して書かれている。新たに発掘、解明したと誇り得るようなものは、少しも含まれていない。

この両著にないものが小論にあるとすれば、それは、この二つの「戦後日本史学史の必読文献」をその著者の意図するところとはおかまいなしに、「戦後マルクス主義史学はいかにして解体していったのか」、そのプロセスの叙述されてあるテクストとみて、その読み換え作業を行おうとしている点であろう。それがうまくいったかどうかは別として、戦後史学史の教科書としてたよるべき指針とし、さらにまたテクスト読み換えの素材としても利用させて貰っているわけだから、考えればじつに多くのものをこの両著に負っていることになる。文字どおり、この両著なくしては、小論など成立しようはずもなかった。二人の先学に対して心よりの敬意を表しておきたい。

ところで、戦後マルクス主義史学の解体のあとをあとづける作業が、この共同研究の全体的なテーマである「近代日本のアジア認識」とどのような関係にあるのか、訝しく思われるむきもあるにちがいない。しかし、事は単純で、簡単に言ってしまえばこういうことだ。戦後マルクス主義史学にとって「アジア認識」の問題は「躓きの石」にほかならなかった。その問題がマルクス主義史学を解体に追いやる一つの、それも重要な契機としてはたらいたのである。

戦後マルクス主義史学はひとつのアポリア、すなわち「アジア的停滞性論」をめぐるアポリアとでもいうべきものをその内部に抱えこんでいたのであり、それがマルクス主義史学の「世界史の理論」＝「歴史の発展段階論」を内部的に解体させていく梃子となった。マルクス主義の「世界史の理論」がアジアの歴史に具体的に適用された時に、その理論では容易に解決できぬ問題が発生し、その難問の解決に悪戦苦闘するうちに、修正につぐ修正が理論にほどこされ、原形も定かでないほどに変形し、ついには消滅にむかわざるをえなくなったと考えるのである。

戦後マルクス主義史学の「世界史の理論」が、この「アジア的停滞性論」の問題をめぐってどのような悪戦苦闘を経験し、自己解体を余儀なくされていったのか、その過程を史学史的に考察すること、これが小論の課題である。もちろん、ここでいうところの「アジア的停滞性論」とは、「アジア諸民族の歴史の特質を、発展が停滞的であることにみとめる議論」⁽²⁾あるいは「（アジア）社会が停滞的性質を濃厚に具えており、したがって、西欧あるいは日本に比べて、自力で近代化してゆく可能性にとぼしいという見方」⁽³⁾をさしている。

このような把握が決してひとりよがりのものではないことを、言い換えれば、「アジア的停滞性論」の問題が戦後マルクス主義史学にとっていかに重大な意味をもつものであったかを、まずは先学自身の言葉によって確認しておこう。遠山は前掲書の結論部分において、戦後歴史学が直面する困難な課題のひとつに、次のような問題があると指摘している。

アジア停滞性論、中国停滞性論の克服の必要が説かれはじめてから、すでに約二十年を経過した。この問題がどこまで解決されてきたか、簡明に結論づけようとしても、容易にはできない。まずはっきりいえることは、この問題意識が、原始から現代にいたる全時代の歴史研究を前進させる力を生み出した問題意識の一つであったことである⁽⁴⁾。

素直で、気の早い読者は、この引用の前半部分から、遠山が憂えているのは、日本人一般の中に根強く存在しているアジア観とその克服の問題だと解するやもしれない。

つまり、日本の一般民衆はアジア蔑視観に根強くとらわれており、歴史的意識としてそれが現れると「アジア的停滞性論」となる。しかも、そのような「アジア的停滞性論」的な歴史意識はアジア蔑視観に根拠を提供して、それを絶えず再生産する契機としてはたらく。そういった現実＝伝統が一方にあり、他方には、かかる誤った歴史観の克服をこそ自らの課題とみなす進歩的、民主主義的な戦後歴史学があって、この牢固たる現実＝伝統を清算すべく、この二十年間というものたえず民衆への啓蒙と反動的・帝国主義的・植民地主義的な歴史観の批判に全力を傾けてきたが、いかんせん、根深いアジア蔑視観に骨絡みとなった民衆は、そのような誤った歴史観から脱却できず、そのため二十年におよぶ戦後歴史家の努力もはかばかしい成果を収めることのないまま、今日にいたってしまったと、そう遠山が述懐しているのだと理解するやもしれない。

遠山の言葉にそういった意味合いがないわけではない。しかし、そればかりだと決めこんでしまうと、遠山の言わんとしたところを正しく把握したことにはならない。

最後の一文「この問題意識が、原始から現代にいたる全時代の歴史研究を前進させる力を生み出した問題意識の一つであった」が示すように、遠山がここで反省しているのは、戦後歴史学の外部に存在する民衆の歴史観や反動的・帝国主義的歴史観などではないのだ。そうではなくて、まさに戦後歴史学、正確にいえば戦後マルクス主義史学に内在する問題としての「アジア的停滞性論」と、その克服の必要とが論じられているのである。そのことは、同書の別のところで、一九六四年に開かれた北京科学シンポジウムに関連して、次のように述べられていることからしても明らかである。

戦後歴史学が、いかにヨーロッパ史典型論やアジア停滞性論からの脱却につとめ、しかもそれが実現できずにいるか、こうしたわが国歴史学の独自の性格と問題が真正面から報告されるべきであった。それが日本の、とくに唯物史観の立場に立つ歴史研究者が、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの人民にたいしてもつ社会的責任であるはずであった⁽⁵⁾。

戦後マルクス主義史学（遠山のいう「戦後歴史学」をこの言葉に置き換えてもいっこうにかまわないはずだ）の歴史理論および歴史意識には、「アジア的停滞性論」ないしはそれに帰着せざるをえない要素が色濃く内在しており、その克服が二十年来叫ばれ続けてきたにもかかわらず、現在にいたってもその課題は達成されていない、そのことを遠山は慨嘆しているのだ。

外部の民衆のアジア観ではなくて、戦後マルクス主義史学の歴史意識、歴史理論に内在する内部の問題としての「アジア的停滞性論」と、その克服こそが問題なのである⁽⁶⁾。じつをいえば、遠山のこの書物も、まさにその克服を以て戦後歴史学のはたすべき第一義の課題とみる観点から書かれており、それがこの書物のメイン・テーマともなっている。

「アジア的停滞性論」の克服はほかならぬ遠山その人自身の課題でもあり、あとで詳しく紹介するように、一九六〇年代前半の遠山はその問題意識に導かれて、マルクス主義の「世界史の理論」を修正しようとしたのだった。その課題が戦後二〇年たっても容易に達成されなかったところに「遠山茂樹の憂鬱」が見出されるのである。

ニュアンスに差はあれ、マルクス主義史学の世界史把握に「アジア的停滞性論」に通ずる傾向が色濃くみられるとの認識は、成瀬治によっても共有されている。成瀬は、講座派的マルクス主義史学に典型的な「人類史を社会経済的な発展法則の理論に依拠して体系づける」歴史観・世界史観では、

「マニュファクチュア段階」「絶対主義」といったヨーロッパ近代史研究の諸範疇の援用によって、西欧と日本の社会発展におけるパラレリズムが過度に強調されやすい反面、本来多元的なものである「アジア」の歴史を、「東洋的専制主義」論と「停滞的社会」論を二本の柱とする一九世紀ヨーロッパ的なアジア認識によって裁断する結果、アジアの「近代化」をアジア諸民族の主体的な問題として内部から理解する目が曇らされてしまいかねなかった⁽⁷⁾。

とその欠陥を指摘しおり、そのうえで、「「講座派」的な世界史史観と強く結びついてきたアジア社会の「停滞性」という観念」⁽⁸⁾を「内なる偏見」としていかに克服するかが、戦後日本の世界史認識における重要課題のひとつであったとの議論を展開しているのである。

一　マルクス主義史学と「アジア的停滞性論」

スターリン批判以降このかた、マルクス主義は政治的にも、理論的にも四分五裂の状態に陥り、そこに統一的な像を描くことは不可能である。極端にいえば、マルクス主義者の数だけ、ちがったマルクス主義が存在する。つまり「マルクス主義とは何か」という問に、いくつもの異なる解答が可能な状態となったわけだ。

このような状態になれば、もはや「マルクス主義とは何か」という問を発すること自体無意味といえよう。いやそれどころか、東欧とソ連で共産党支配体制が崩壊したのを実見したあとともなれば、マルクス主義そのものがもはや「死語」の範疇に入ったというべきであろう。あとは「葬儀」をきちんとすませることが残されているだけだといってもよい。少なくとも歴史学の世界では、現在自分はマルクス主義史学者であると、堂々と正面切って自称しうる研究者は皆無に近いと思われる。

そう考えれば、小論のテーマなどはアウト・オブ・デイトもはなはだしいわけで、いまさらこんなことを議論しても、ほとんど何の価値もないかもしれない。

しかし、かつてはマルクス主義の歴史理論といえば、その内容が何を指すかは万人にとって明白だったのであり、正統と異端とを峻別する単一のリジッドな公式的理論が存在していた。しかもその公式が、少なくとも一九六〇年代半ばまでは、戦後歴史学のパラダイムとして大きな権威を有していたこともまた否定しえぬ事実である。その理論体系全般についてここで問題にすることは私の手に余るのでふれないが、その核心に据えられていたのが、人類史発展の一般法則としての「唯物史観の公式」と呼ばれるテーゼだったことはよくしられていよう。

系譜的には、マルクスが『経済学批判』の「序言」で定式化したのを土台にして、レーニン・スターリン時代のソ連において公式化・教条化された理論がそれである。以下の記述では、この公式化された歴史の発展理論を「世界史の基本法則」とよぶことにする。この名称は、有名な歴史学研究会の一九四九年度大会報告の呼称を踏襲しているのだが、その内容を概括すれば、ほぼ次のようになる。

①すべての個別歴史＝社会は、基本的には同一の発展法則にしたがって運動・発展する。すなわち、次のような発展段階を順次継起的に通過していく。

原始共産制あるいは氏族制社会→古代奴隷制社会→中世封建制社会→近代資本制社会→社会主義・共産主義社会

もっとも、マルクスの「序言」では「原始共産制あるいは氏族制」はなくて、かわりに「アジア的（生産様式）」が最初にくるのだが、のちに定式化される時に右のように修正された。その後マルクスの遺稿『資本主義生産に先行する諸形態』が発見され、マルクスがアジア的生産様式・アジア的共同体社会を一つのカテゴリーとして区分していたことが明白となった。ただし、そのアジア的社会を発展段階のどこに位置づけるかをめぐっては、いまだに諸説がわかれている。

②各段階の発展・移行の動因となるのは、個別歴史＝社会の内部矛盾（生産力と生産関係の矛盾、階級闘争）とその展開であり、内部矛盾の弁証法的展開によって、一つの社会は必然的に次の段階へと発展・移行していく。つまり、封建制社会の内部にこれを否定する資本主義の契機が生じ、その矛盾の展開の過程で、封建制が揚棄され、近代の資本主義社会が生み出されてくるのであり、同じ様に資本主義社会の内部矛盾の展開によって、歴史必然的にそれを否定する社会主義・共産主義が生み出されるというのである。

あるいは右のような説明にたいして、それはマルクス主義ではなくて、レーニン・スターリン主義の歴史理論にすぎない。マルクス自身は一言もそんなバカなことを言っていないとの反論が出されるやもしれぬが、史学史的な考察にとどまる小論においては、あくまでも歴史的に実在し、歴史理論として大きな役割をはたした「実在としてのマルクス主義」を考察の対象としている。だから、たんに私の脳髄の中にしか存在しない「歪曲されていない、純粋なマルクス主義」はもちろんのこと、ありえたかもしれない「可能性としてのマルクス主義」や、さまざまな左翼反対派、異端派の「これこそが〝ほんとう〟のマルクス主義」などといったものは、当然考慮の外におかれている。

「歴史的実在としてのマルクス主義」の歴史理論の骨格は、いささか大雑把ではあるけれども、右に要約したところでそう大きなまちがいはないはずだ。　右の公式の①は、「社会構成体の継起的発展段階論」とでもいうべきもので、すべての社会の歴史がそれにしたがって推移すべき普遍的な歴史発展のコースを示し、②の部分は「内部矛盾の弁証法的展開による段階移行論」といえよう。「世界史の基本法則」に立脚するマルクス主義の歴史理論は、別名「社会構成体史」ともいわれるように、ひとつの歴史的社会の内部構造がいかなるものであるのかを規定する社会構造論としての側面と、一定の構成を有する社会が他の社会構成体へと発展・移行していく順序とその動因とを明らかにした社会構成体の移行論・運動論という二つの側面を具えていたのであり、そこにこの理論の大きな魅力と、広く受入れられるにいたった理由を求めることができよう。

ところで、この「世界史の基本法則」は、遡ればマルクス自身の歴史理論に由来するわけだが、マルクスがインドや中国社会の研究に少なからぬ時間を割いたのは事実だとしても、その「唯物史観の公式」なるものが基本的には一九世紀までのヨーロッパ史とくに西欧史の歴史的総括の上に組み立てたられたものであることは明らかであり、彼の考察が如何に正鵠を射ていようとも、それが特定地域史の歴史的総括から帰納された「法則」にすぎぬことは否定しえない事実である。この「法則」が他の非西欧地域の歴史、たとえばアジア諸国の歴史に具体的に適用されたとき、はたしてどれほどの適合性をもちうるか。その普遍性、一般性はどこまで保証されているのか。そのあたりの問題は、冷静に考えてみなければならないはずであった。

もしも、具体的にアジアの歴史的現実と突き合せてみて妥当しないとなれば、「世界史の基本法則」は一般的、普遍的な法則とはいえなくなる。にもかかわらず、あくまでも「世界史の基本法則」としてその一般性、普遍性が主張されるならば、逆にそれは、西ヨーロッパという特定の社会の歴史から抽象化された像にすぎないものを他の地域の歴史に無理にあてはめようとする、西欧中心主義の歴史観にすぎないということになろう。

「世界史の基本法則」がアジアをはじめとする非ヨーロッパ世界の歴史に対しても同様に妥当することを、いいかえればその法則が真に普遍的で、たしかに一般的性格を有するものであることを、マルクス以下のマルクス主義者が実証したわけではない。一般的法則と銘うつからには、当然妥当するはずだとの「思いこみ」により、正しいと受入れられたにすぎない。この「思いこみ」のリアルさを支えていたのは、マルクス自身が『資本論』で見せたその資本主義社会分析のリアルさにあったと考えて間違いない。あるいは人々の胸中にある解放をめざす切実なロマン、共同幻想がそれを支えていたというべきかもしれぬ。さらにいえば、資本主義自身がもっている本質的に膨張的で、世界システム的な性格によるところも大きいと思われる。

しかし、もともとは仮説にすぎぬ理論が、普遍的真理として演繹的に導入されたのだから、どうしても現実との間に齟齬が生じざるをえない。その理論を忠実に適用しようとしたアジア史の実証的研究者から、さまざまな疑義が提出されるたとしても、それは無理からぬことであった。たとえば、中国における奴隷制や封建制の有無、またその性格をめぐっての論争や中国史の時代区分に関する論争など、その一例といえよう。戦後になってマルクス主義史学が全盛をむかえると同時に、たちまちにしてそれらの問題が噴出しはじめた。それらの問題は、はじめのうちは「世界史の基本法則」に何とか適合する範囲内で処理されようとした。「基本法則」に例外処理や再解釈が導入され、次々とパッチがほどこされ、齟齬をなんとか糊塗しようとする涙ぐましい努力が繰り返された。しかし、その努力もいつかは限界にぶち当たらざるをえない。

たとえば中国史研究の世界で、「世界史の基本法則」に最終的に見切りが付けられたのはいつ頃のことだったのだろうか。谷川道雄が一九九一年におこなった「戦後日本の中国史論争」の「総括」にしたがえば、「中国史を世界史の普遍性においてどうとらえるかという、敗戦直後以来の課題に対して、有効な解決が未だ与えられていない」にもかかわらず、戦後の中国史学界における「論争の時代」は「七〇年代後半を期として、しだいに終熄に向」かい、八〇年代には終焉したとされている⁽⁹⁾。つまり一九七〇年代と八〇年代の境界のどこかで一つの区切りがつけられたのである。おそらくそこで、大多数の中国研究者がなんらかの形でそれぞれ「世界史の基本法則」に最終的な「見切り」をつけたのではないかと思われる。

「世界史の基本法則」がアジアにおいても同様に普遍的妥当性をもちうるのかという問題、いいかえればアジア社会においてもその定式に定められたとおりの歴史的発展が実際に見られるかどうかという問題はたしかに重要であり、「世界史の基本法則」の一般性を堀りくずし、それが必ずしも普遍妥当性を有するものでないことを結果的に明らかにした点で、マルクス主義史学の解体をもたらす重要な契機となったといえるであろう。そのことは疑いをいれない。しかし、小論の基本テーマである戦後マルクス主義史学に内在する「アジア的停滞性論」の問題は、この法則の適用問題とは同根ではあっても、そのあらわれにおいて少しちがっており、法則の適用問題一般には解消されえない固有の問題領域を有していた。それは、マルクス主義的にいえば、アジアにおける封建制から資本制への移行の問題、あるいは成瀬治の言葉を用いれば、アジアにおける「近代化」の問題にほかならなかった。

マルクス主義史学の歴史理論によれば、基本的にはすべての社会がその内的矛盾の弁証法的展開を動因にしつつ、同一の法則にしたがって歴史的発展の段階を進んでいくわけだから、「進んだ西欧」においても「遅れたアジア」のいずれにおいても社会構成体の移行のコースは一定不変であって、アジアでは自力による「封建制から資本制への移行」あるいは「近代化」は不可能であるとの主張は、この理論によればあきらかに謬見だということになる。その意味で、たしかにこの理論は西欧絶対優越論の否定という側面を有しており、「アジア的停滞性論」とくにアジア社会を古代以来ほとんど不変な社会とみなす「絶対的停滞論」とは相容れぬようにみえる。西欧に比べて「近代化」が遅れている地域で、この理論が広く受入れられたとすれば、そのあたりに由来するところが大きいといえよう。

しかしながらその一方で、すべての社会は基本的に同一の法則にしたがい、同じ発展コースを進むと主張する点で、この理論は典型的な単線的発展段階論といわざるをえない。その線形性ゆえに、歴史的発展の「遅速」、あるいは発展段階の「高低」という相対的な順序・序列の視点が入ってくるのを避けることができない。社会を比較する際の指標として、歴史的発展段階の差異という時間的な軸が重視されざるをえないのである。いや、このような単線的発展段階論によってはじめて「先進国」「後進国」という相対的な比較に「科学的」な根拠づけがなされたのだとさえいえよう。なぜなら、この理論にしたがえば、ひとつの社会がいかなる歴史的発展段階に位置しているかは、その社会構成体の内的構造を調べることによって確定されるわけだから、Ａの社会とＢの社会のいずれが相対的に「進んでいるか」あるいは「遅れているか」を判定しうる客観的な指標が与えられたに等しいといえるからである。

この理論にしたがえば、資本制にまず最初に移行したがゆえに、西欧の市民社会は他の社会よりも「より進んだ」社会に位置づけられることになる。もちろん、最初に社会主義が樹立されたソ連は「もっとも先進的な」社会といわざるをえないし、逆に封建制から資本制への移行過程にあるように見えた一九世紀末から二〇世紀にかけてのアジアは「より遅れた」社会ということになろう。また、原始時代さながらの生活を営んでいるかにみえるアフリカやオセアニアの社会は「もっとも低度」の発展段階に位置づけられざるをえない。

このように、すべての社会が「世界史の基本法則」にしたがって発展するとしても、現実には個々の社会によってその発現に差異があるため、より発展の「早い」社会とより「遅い」社会、より「発展的」な社会とより「停滞的」な社会との区分が生じざるをえない。地球上のさまざまな社会が、たんに「所変れば、品変る」式に、空間的な差異に基づく多様な存在として存在するのではなくて、時間的な差異すなわち歴史的発展段階を異にする「より進んだ社会」と「より遅れた社会」の混成体としてとらえられざるをえないのである。

結果的にとはいえ、歴史的発展段階の「高低」や発展の「遅速」によって各社会を必ずや序列化せずにはおかない視線を「世界史の基本法則」は有していた。しかも、同一の法則にしたがって発展することにはなっていても、実際には社会によって発展段階に「高低」や「遅速」すなわち不均等発展が避けられないとすれば、当然その差異の由来について、必ずや次のように根源的で切実な問が投げかけられずにはおかないはずである。

なぜアジア（＝日本）は西欧に比べて発展が遅れてしまったのか。なぜアジア（＝日本）では、封建制から資本制への移行・発展が西欧のようには進まなかったのか。この発展の相対的な遅速、発展の不均等はいったい何に由来するのか。

ところが、この問に答えようとすれば、上に述べたような発展段階論それ自身の論理では、その構造上、その社会の内的矛盾の展開のありかたにその原因を求めるほかはない。つまり、生産力の発達がおそいとか、階級闘争の形態や歴史の矛盾の発現形態の相違に起因するとしか、答えようがないのである。発展の相対的な遅速の原因をそれぞれの社会の内部的な構造に求める「内因説」に立つわけであり、アジアが西欧に比べて発展が遅れているのは、アジア社会の内部構造にその要因があるとするのだから、ここからいわゆる「アジア的停滞性論」まではほんの一歩の距離に過ぎないといえよう。

もっとも、この場合の「アジア的停滞性論」はヨーロッパに比べて相対的に発展の度合が遅れているという意味での「停滞性」であるから、もはや「絶対的停滞論」とはいえない。「絶対的停滞論」とは異なる「相対的停滞論」というべきであろう。すなわち「世界史の基本法則」は「アジア的停滞性論」のうち、「絶対的停滞論」とは対立的で相容れぬ関係にあるかもしれないが、「相対的停滞論」とはかなりの親和性を有していたのであった。

いやもっとストレートに、マルクス自身のアジア社会論そのものに「絶対的停滞論」的な「アジア的停滞性論」の直接の理論的根拠が見出されるとする見解も存在している。たとえば次のような谷川道雄の見解はその一例である。

マルクスの唱えた東洋的専制主義の理論では、その国家の基底に、社会発展の契機に乏しい村落共同体が存在したことが指摘されている。またマルクスは、古典奴隷制、封建制、近代資本制というように継起する各生産様式の最初の段階に、アジア的生産様式を位置づけている。こうしたマルクスのアジア社会論が、中国社会「停滞論」の理論的根拠となっていた⁽¹⁰⁾。

二　初発の形態―羽仁五郎と服部之総―

　前節の考察からわかるように、マルクス主義史学の「世界史の基本法則」には、その論理構造上、「アジア的停滞性論」ないしはそれに帰着せざるをえない要素が色濃く内在していた。その点を、マルクス主義が日本に輸入され、マルクス主義史学が学問として確立されたそもそもの初発の形態にまで遡って、確認しておきたい。

羽仁五郎の秀作「東洋に於ける資本主義の形成」⁽¹¹⁾（一九三二年）は、周知のように、アジアにおける資本主義の形成（封建制から資本制への移行）は西ヨーロッパの場合とはちがっており、その内部から資本主義の発展が生じるよりも前に、外部の他者である欧米資本主義の力によって資本主義的世界経済へとむりやり編入され、植民地・半植民地ないし後進資本主義として先進資本主義・帝国主義に隷属・従属する形態をとって進行したという世界史的事実を確認することから稿が始められている。インドの植民地化、中国の半植民地化、日本の開国および明治維新は、このような資本主義的世界経済の世界史的法則の必然的なあらわれにほかならぬと論じた羽仁は、その上で次のような問を投げかける。

東洋に、そして今ここに印度に、自己内部から資本主義の発展が起こらない間に、かえってまず西欧的とくにイギリス資本主義の下における隷属が可能いな必然とされたことは、何を意味したか⁽¹²⁾。

この羽仁の問が、先ほど「世界史の基本法則」が必然的に誘発せざるをえないと指摘したあの問、すなわち「なぜアジアでは、封建制から資本制への移行・発展が西欧のようには進まなかったのか」という「アジアの後進性」に関する問と、その本質において同じものであることは説明を要しないだろう。この問を立てざるをえなかった点で、羽仁もまた例外ではなかった。してみれば、羽仁の「東洋における資本主義の形成」全編は、この問に対する羽仁＝マルクス主義史学の解答にほかならぬと解されよう。

羽仁の解答の概要を記せば、ほぼ次のようになる。まず羽仁は、「世界史の基本法則」のセオリーに忠実に、インド、中国、日本においてもヨーロッパ同様、奴隷制から封建制へと社会構成体の順次的移行・発展がみられ、前資本制社会は農奴制社会にまで到達していたと断定する。その点においては、アジアも西欧も変りはなかった。では、いったいどこに差異が発生するのか。

羽仁によれば、インド、中国、日本の奴隷制、農奴制は、ヨーロッパ古典古代の奴隷制やヨーロッパ封建社会の農奴制とは「基底を一にしつつ方向を異にし形態を異にしていた」⁽¹³⁾。言い換えれば、アジアの奴隷制、農奴制はヨーロッパのそれとは異なる「アジア的特殊性」を有していたと言うのである。そして、このアジア的特殊性を有する奴隷制、農奴制の生産様式のことを、羽仁は「アジア的生産様式」と呼んだのであった（「アジア的生産様式」についての羽仁の理解は、マルクス自身のそれとは明らかに違っているが、ここではそれはさして重要ではない。よって羽仁の用語をそのまま踏襲する）。結論を先回りして言えば、この「アジア的生産様式」なるものの存在が、これらの社会を「停滞的社会」たらしめ、内部的に資本制へと移行するのを妨げた原因となった、そう羽仁は主張するのである。

羽仁は次のように考える。アジアでは氏族制から奴隷制をへて封建制へと発展・移行する過程で、「階級分裂社会に転化せる末期氏族社会関係以来の生産関係が、ヨーロッパ古典古代乃至中世におけるごとき程度において私有財産および土地私有の発展により徹底的に新しい生産関係によって爆破され代置されずして農奴制への発展が行われ」⁽¹⁴⁾、「古き氏族社会の内部における新しき階級対立の成立の形態の徹底的爆破でなく、その残存その利用乃至濫用、それとの癒着の下に、（略）農奴制への発展がなされた」⁽¹⁵⁾、と。

つまりアジアでは、一つの社会構成体からもう一つの社会構成体へと移行するに際して、階級闘争あるいは土地私有の発展が不徹底であったため、古い社会関係が新しい社会関係によって全面的に否定・置換されることがなく、古いものが広範に残存し、新しい関係と妥協癒着しつつ、次の段階に移行してきたのであり、その結果「徹底的なる階級的所有関係の発展に伴う闘争と自由の獲得とへ一路邁進する社会ではなく、かえって未発達の時代の諸条件からの由来を続けその諸制限に依頼して成形し従ってこれによって前進的発展を拘束せられて」⁽¹⁶⁾しまったと言うのである。氏族制以来の旧い社会関係の重畳的残存により「封建制生産関係の資本制生産関係への発展が、（中略）著しく重く遅滞的にせられた」⁽¹⁷⁾ことが、アジアに後進性をもたらした歴史的要因にほかならなかった。

先ほど指摘した問に羽仁がどのように答えたかは、以上で明らかだろう。要するに、インド、中国、日本などアジアの前資本制社会（奴隷制、封建制）が有していたヨーロッパとは異なる特殊性（＝「アジア的生産様式」）に、その原因が求められたのだった。ここでの羽仁の議論は典型的な「内因説」といってよい。また、羽仁がヨーロッパ社会に比べてアジア社会は停滞的だと考えていたことも明白であり、実際、この論文には「印度の停滞性」「印度の凝固停滞」「中国社会のかかる循環と停滞」といった言葉が再三再四登場する。

もっとも、羽仁の「東洋における資本主義の形成」は、たんにアジアの前資本制社会の特性を分析しただけで終わっているのではない。この論文のもう一つの、そしてより重要な主張は、アジアに進出してきた先進資本主義はすでに帝国主義化しており、自らの植民地支配の維持のため、旧い封建的諸関係を破壊しようとはせず、むしろこれと妥協し、利用する傾向にあり、そのためアジアでは資本主義の下でかえって旧来の封建的諸関係が強固に維持・継続される状態が出現するという指摘であった。

羽仁自身は、この指摘に基づいて、アジアでは資本主義が封建的諸関係から民衆を解放することはありえず、民衆は帝国主義とそれによって残存せしめられた封建的・半封建的支配との二重の桎梏に苦しめられざるをえない。新たに生れでたブルジョアジーもそのほとんどが帝国主義と癒着・結託する買弁ブルジョアジーにすぎないから、この二重の支配を変革することなど決してありえない。よって「古き封建的生産関係に対する新しき生産関係の代置の全面的主張およびそのための徹底的闘争の主要な代表者或は社会的支柱乃至遂行者たり得るものは、ただひとり中国農民・被収奪大衆従ってプロレタリアートである」⁽¹⁸⁾と、来るべきアジアの革命の性格規定をおこない、その変革の主体がプロレタリアート以外ではありえないと宣言したわけだが、私が関心をよせるのは、そのことではない。この羽仁の主張には次のような含意があるいう点に注目したいのである。

羽仁のこの主張を敷衍すれば、アジアにおける資本主義の形成は西欧とはちがった形態、すなわち帝国主義による植民地化・隷属化という「外生的」「従属的」な形態で進行すること、あるいは進行せざるをえないこと、そのためアジアでは、旧来のアジア的、封建的な諸関係が徹底的に破壊・清算されることはなく、むしろ維持・継続されるということ、言い換えれば、帝国主義の支配の下、すなわち先に資本主義化を達成した先進国による「外的な圧力」が作用する場においては、資本主義化は封建的諸関係の揚棄に結びつくものではなくて、むしろその反対の作用をもたらし、事態は決して「世界史の基本法則」どおりには進まないという主張にならざるをえない。この主張は、アジアの資本主義化はアジア社会の「内部的な矛盾の展開」の産物ではなくて、むしろ世界資本主義の外的な作用によって引き起こされると考える点で、明らかに羽仁自身が依拠している「世界史の基本法則」に対するアンチ・テーゼとなっているのである。そういう方向性を羽仁の議論が内包していたことを、ここで指摘しておきたい。

ところで、同じようにアジア的と一括りにされていても、インド・中国の前資本制社会を分析する時と、日本のそれについて言及する時とでは、羽仁の表現に微妙な違いが見られる。言い換えれば、同じ様に「東洋における資本主義の形成」を論じていても、インドの植民地化や中国の半植民地化を論じる時と、日本の明治維新を論じる際とでは、視角が少し違っているのである。

羽仁は、「日本の特殊性の論説については、すでに本稿において印度或は中国の特殊性論につき分析批判されたところが、大部分そのまま妥当する」⁽¹⁹⁾と、日本の前資本制社会（奴隷制、農奴制）がインド、中国と同様に基本的には「アジア的生産様式」の範疇に入るものであったと三者の共通性を主張するが、しかしその半面、日本については「アジア的生産様式の形態下の封建制的生産様式の発展、そこにおけるブルジョア的発展の萌芽乃至絶対王政への転化の萌芽形成、かかる状態をもって近代日本社会はいわゆる幕末の時期にのぞんでいた」⁽²⁰⁾と、「封建制下のブルジョア的発展の萌芽」を指摘している。ところが、インドや中国については、そのような指摘はなされていないのである。逆に「封建制下のブルジョア的発展の不可能性」のみが強調されているといってよい。しかもこの羽仁の主張は、実際にイギリス支配のはじまる前のインド社会や、アヘン戦争以前の中国社会について「封建制下のブルジョア的発展の萌芽」が見られるかどうかを実証的に検討した結果出されているのかといえば、そうではないのである。

そもそも羽仁には、もしかしたら幕末の日本にみられた程度の「封建制下のブルジョア的発展の萌芽」なら、さがしてみればインドや中国にも同じように発見できるかもしれないとの発想が最初からなかったように思われる。同じような「アジア的生産様式」の社会だけれども、インド・中国と日本とでは同一性の中の差異性ともいうべき相違があり、少なくとも幕末の日本には「封建制下のブルジョア的発展の萌芽」が見られるが、インド・中国にはそういうものはなかったはずだとの固定観念がア・プリオリに前提とされており、それがため「封建制下のブルジョア的発展の萌芽」の有無を論じるのであれば、インドや中国の現実にあたってみて、実際にそれを検証してみる必要があるとの考えが脳裏にうかばなかったのではないかと推測される（もちろん、当時の状態では、たとえ実証しようと思っても、研究状況からして不可能だったとは思われるが）。

なぜそう推測するかと言えば、先ほど私が指摘した「アジアの後進性」についての問（「なぜアジアは西欧に比べて発展が遅れてしまったのか。なぜアジアでは、封建制から資本制への移行・発展が西欧のようには進まなかったのか」）はそのコロラリーとして、次のようなもう一つの問を呼び起こさざるをえないからである。それは、「同じアジアの国であり、同じように欧米資本主義の力によって世界経済に編入されたにもかかわらず、なぜ日本のみが後進資本主義国家としてまがりなりにも独立を維持し、さらには帝国主義国家へと転成したのに対して、インドや中国は植民地・半植民地化されてしまったのか、その差はいったい何に由来するのか」という「日本とインド・中国の近代化・資本主義化の差異」についての問である。もちろん、この問は構造的には最初の問と同型であって、ただ「西欧」を「日本」に、「アジア」を「インド、中国」に置き換えただけにすぎない。

この第二の問に対して、羽仁が最初の問に答えたのと同様の方法でもって答えようとすれば、結局のところ、日本とインド・中国の奴隷制・封建制の性格の差異に、その原因を求めざるをえなくなるのは明らかである（＝「内因説」）。そして、その差異が具体的には「封建制下のブルジョア的発展の萌芽」の有無ないしはその発展程度の差異に還元されるであろうことも容易に推測がつく。それゆえ、現実において、一方における植民地・半植民地のインド・中国と、他方における後進資本主義にしてかつ帝国主義の日本という対照的な差異が厳存するかぎり、先に述べた「日本とインド、中国との近代化・資本主義化の差異」に関する問が発せられるのは避け難いうえ、その問にマルクス主義的に解答せんとすれば、幕末日本には「封建制下のブルジョア的発展の萌芽」がみられたが、インド・中国にはそのようなものはなかったはずだとの論理的要請が先立たざるをえないのは、ある意味では当然のことであった。そうでなければ、インド・中国と日本の近代化・資本主義化の差異について、マルクス主義史学の理論では説明がつかないことになってしまう。このような論理的要請がいわば枷となって、インド・中国における「封建制下のブルジョア的発展の萌芽」については、実証ぬきで「存在しない」ものとされてしまったのであろうと、推測したのである。

羽仁のこの論文では、「インド・中国と日本の近代化・資本主義化の差異」についての問は、表面にはあらわれてこない（一箇所それらしき所はあるが）。この問題がより明確な姿をとって現れるは、周知のように羽仁の説を批判した服部之総の業績においてであった。

服部は一九三三年に「維新史方法上の諸問題」以下の論文を発表し、その有名な「幕末＝厳密なる意味におけるマニュファクチュア時代」説を提唱した。すなわち「幕末＝封建的幼稚生産＝段階論は誤っている」としてこれを退け、幕末における日本の資本主義の発展段階は、『資本論』でいうところの「厳密なる意味におけるマニュファクチュア時代」に達していたと主張したのである⁽²¹⁾。このことは服部が、「封建制下のブルジョア的発展の萌芽」を羽仁よりもはるかに大きく見積もっていたことを意味する。

服部の場合も、右の論文では幕末日本の手工業についての実証的分析から帰納的に「幕末＝厳マニュ時代」説が導き出されたのでは決してない。マルクス主義の歴史理論からする当然の論理的要請が先に立って、実証はあとから付け加えられたにすぎない。なぜならば、「幕末＝封建的幼稚生産＝段階論」ではせいぜいのところ「アジア的生産様式」の指標の一つである「永遠の同一状態の再生産、同一物への復帰輪廻としての漢文教師的「革命」論―への道を拓くのみで、真に弁証法的な変革への契機は何一つとりあげることができない」⁽²²⁾からである。是非とも幕末の段階である程度の資本主義的発展が日本社会に内包されていたとしなければ、日本とインド・中国の資本主義化の差異を合理的に説明できないと、そう服部は考えたのである。

服部は言う。もしも、幕末日本の「歴史的発展段階」が「封建的幼稚生産段階」にすぎなかったのであれば、「日本が植民地化するという一本道のほかに、いったい如何なる可能な道がのこされているだろうか？（中略）本来植民地化ないし半植民地化の一本道よりほかはでてきっこないのである」⁽²³⁾。ただ幕末開港前に「厳密な意味でのマニュファクチュア時代」を認める見地のみが、「一方この「時代」をもってしてはけっして揚棄することのできなかった封建制経済的社会構成の基礎のゆえに、支那で先行したと同様な形式での「半植民地化の危機」の契機を、だが他方この「時代」を前提してはじめて可能となった右「危機」の克服の契機を」⁽²⁴⁾統一的合理的に把握、提示することができるのだ、と。

服部の有名な「幕末＝厳マニュ時代」説がどのような理論的要請の産物であったか、これ以上の説明は不要だろう。それは、あの「日本とインド、中国の近代化・資本主義化の差異」についての問に答えんがために提唱されたのであった。そのことは戦後になって服部自身が次のように認めている。

厳密に社会科学的な意味で―すなわち、一国の社会的・物質的生産の発展段階の高下という点で理解するとき、一九世紀初頭の「黒船」が見出した幕末の日本と同じ時代の朝鮮および清国とでは、異なっている。そのちがいかたは、日本は私の考えではすでに天保時代の―一八三〇年代にマルクスのいう本格的マニュファクチュア時代―厳密な意味でのマニュファクチュア時代―に入りこんでいたが、清国がその同じ段階に入りこむのは、ようやく日清戦争の前夜―一八九〇年代のことである（中略）。まったく均しい条件のもとに「開国」しながら、一方は日清戦争直前独力不平等条約を改正して、天心をして「真に自ら独立なりと呼びうる」「唯一の古い帝国」といわしめる位置に、他方が、老帝国のうらぶれた位置に立ったことの窮極的な源泉は（中略）「黒船」時代にみられる両国の如上の発展段階の差異にもとめられなければならないだろう。往年のわたしの幕末＝マニュファクチュア時代論のもつ歴史学的な主張は、じつはこれ以上でも以下でもなかったのである⁽²⁵⁾。（強調は永井）

服部の場合、言うまでもなく、歴史の発展を規定する最重要因は、その社会の内的矛盾とくに生産力の発展と生産関係との間の矛盾であると考えられていた。その考えからすれば、中国・インドと日本の近代化の差異は、最終的には前資本制社会における生産力の発展段階の差異に帰着するほかない。それ以外の外的な因子に原因を求めたりすれば、それは「憎むべきブハーリン主義」への堕落以外の何ものでもないということになる。

服部の右論文が彼自身の過去の「ブハーリン主義」清算のために書かれたという由来に注目すべきであろう。服部は、先に発表した自著『明治維新史』（一九二七年）は「維新変革のための矛盾が内部からでなく外部から与えられることを予想し、内部的諸矛盾の分析の―この基本的事業の―事実上の抛棄に赴かせている」⁽²⁶⁾点でブハーリン主義におちいっていたと、自己批判したのだった。つまり、服部の「幕末＝厳マニュ時代論」はスターリン主義に忠実な立場から書かれたわけである。もちろん、そのことと服部が講座派の中ではもっとも生産力史観あるいは経済還元論的傾向を有していたこととは無関係ではありえない。

服部の論理、すなわち日本が植民地化されずに、資本主義化がまがりなりにも成功したのは、すでに資本主義への展開を可能にする「萌芽」が幕末社会の内部にはぐくまれていたからであり、中国・インドがそうならなかったのは、そこまで到達していなかったからだ、との理解からすれば、必然的に前資本制社会の歴史的発展段階について欧米→日本→インド・中国という階層的序列を導入せざるをえなくなる。

また、この論理からすれば、「アジア的生産様式」は内部的な資本主義発展の萌芽に対してつねに抑止的であり、そのかぎりにおいてそこからは植民地化ないし半植民地化以外の進路は許されていないことになろう。服部もまた「アジア的停滞性論」の陣営に属する一人といってよいのである。もちろん、羽仁や服部のこの傾向は、彼らの個人的な問題ではありえない。先にあげたマルクス主義の「世界史の基本法則」の枠組みに忠実であるかぎり、羽仁ないし服部の主張に落ち着くのは必然的だったといえよう。理論そのものに「アジア的停滞性論」に帰着する要素が内在していたからである。

もっとも、羽仁や服部に代表される当時のマルクス主義史学の議論が「アジア的停滞性論」に親和的だからといって、現在の私たちの水準からこれを倫理的に非難してもはじまらない。そういった批判をここでするつもりは毛頭ないし、それをする資格が自分自身にあるとも思わない。私の関心は、マルクス主義の「世界史の基本法則」がその論理構造上、「アジア的停滞性論」と強い親和性を有していたことの確認にあり、それ以上ではない。

「中国の停滞性ということは当時の第一線に立つ中国史家の間に多少とも共通した問題意識であった」⁽²⁷⁾という丸山真男の弁解の言をまつまでもなく、後代の者が容易にあげつらうことのできぬ時代的限界というものはたしかにあるからである。まして、教祖のマルクス自身がインド社会の「静止的性格」を強調していたのだから（「インドにおけるイギリスの支配」一八五三年）、羽仁や服部がそう考えたのも無理からぬことといえよう。

むしろ、ほんとうに考えるに値する問題があるとすれば、それは、現在の尺度からすれば「アジア蔑視」の歴史観として批判の槍玉にあげられかねない要素を有していた歴史認識が、その当時においてはまぎれもない「解放の理論」として広く受入れられたのは、いったいどういう理由によるのか、そちらの問題のほうであろう。

羽仁や服部にはまずなによりも、半封建的な地主制と後進的な資本制の二重の桎梏にあえぐ日本の労働者・農民、あるいは半封建的な専制と地主支配にくわえて帝国主義の植民地支配に呻吟するアジア人民とその解放という「理念」があった。アジアにおける半封建的圧制とそれを生みだした「アジア的停滞性」は、資本主義の搾取や植民地支配の暴威と同様に打倒・克服すべき対象として捉えられていたのである。

アジアの人民が「アジア的停滞性」を自ら克服しなければ、その解放もまたありえないわけだから、「アジア的停滞性」がいかにアジアに惨めな境涯をもたらしているかを学問的に指摘することは、アジアの人民の解放の条件が何であるかを明示する作業となりこそすれ、「アジア蔑視」などにつながるわけはないと、そう考えられていたにちがいない。

羽仁や服部にとって、「アジア的停滞性」はアジア人民の悲惨な現在をもたらした歴史的要因として否定・克服すべき遺産にほかならなかったから、アジア社会にはそのような「停滞性」はみられないとするような議論は、否定すべき負の伝統を擁護する反動的な言辞以外の何ものでもなかったはずである。支持されることなどありえるはずもない。

さらにいえば、その二重の桎梏はただただプロレタリアートとその前衛党の指導する革命によってのみ打破されうるとの革命理論を彼らは信奉していた。その立場からすれば、この二重の桎梏の重荷こそは、解放を希求するアジアの広範な人民を革命と前衛党の指導のもとへと赴かせる発条ともなるべきものであった。「二重の桎梏」をもたらす一因にほかならぬ「アジア的停滞性」は、そこからの脱却の方途をさししめすことのできる変革の主体＝プロレタリアートとその前衛党の歴史的使命をいわば根拠づける存在でもあり、その使命の崇高性をいやがうえにも高める役割をはたす「悪の象徴」として、むしろ革命理論に不可欠の要素であったといえるかもしれない。

さらに、マルクス主義の革命理論では、世界史の発展は最終的には世界的レベルでの社会主義・共産主義の成立に帰着するはずであった。そこではすべての矛盾は解決され、「至福千年」の「自由の王国」が実現される。その未来からふりかえれば、そこにいたる過程での諸社会の不均等発展とそれに由来する「先進」「後進」の区別などは、革命後の社会において確実に揚棄されるはずの相対的問題にすぎぬ。

階級の問題は民族の問題を超えると考えられていたのである。アジア社会の停滞性を強調することが「アジア蔑視」につながるとの非難など、当時の羽仁や服部にとっては思いもよらぬことだったにちがいない。それが意識されるには、革命理論の「夢」から醒める必要があった。

今にして思えば、羽仁、服部に限らず、広く「講座派」とよばれるマルクス主義史学の日本資本主義発達史あるいは明治維新史の研究の半分近くは、先ほどから指摘している二つの問、すなわち「なぜ日本（＝アジア）は西欧に比べて発展が遅れてしまったのか。なぜ日本（＝アジア）では、封建制から資本制への移行・発展が西欧のようには進まなかったのか」という第一の問と、そのコロラリーともいうべき第二の問、「同じアジアの国でありながら、なぜ日本のみが後進資本主義国家としてまがりなりにも独立を維持し、さらには帝国主義国家へと転成したのに対して、インドや中国は植民地・半植民地化されてしまったのか、その差はいったい何に由来するのか」、この二つの問にマルクス主義的に答えようとした試みとみなすことができるのではないだろうか。

前者の問をより重くみて、それに解答せんとすれば、西欧と日本＝アジアの前資本制社会の相違点が比較され、日本＝アジアに共通する「アジア的特殊性」や「アジア的類型」が抽出され、それが「後進性」の原因となったと結論されるであろう。講座派特有の半封建的要素の重視とよばれる傾向はこのような方向性から生れてきたとも考えられる。この問の背景には西欧に対する「劣性のまなざし」がひかえていたといえよう。

逆に後者の問を重視すれば、服部のように、インドや中国と日本の発展段階の差異、日本の方がインドや中国に比べて資本主義的発展の度合においてより進んでいたことが強調されることになろう。こちらはアジアに対する「優性のまなざし」につながる。

両者の分岐は、日本をアジアとの共通性においてとらえるか、それとも差異性においてとらえるのかの差に求められるが、共通しているのはインド・中国などが「アジア的生産様式」の下で資本主義的発展が抑制された、相対的に停滞的な社会とみなす視線である。

羽仁や服部、さらには講座派の見解がその当時において説得力をもちえたのは、彼らが提出しえた解答の正しさに基づくというよりは、彼らが答えようとした問そのもののもつ切実性に由来するところが大きかったと思われる。欧米と日本の社会を比べてみて、両者の懸隔の及び難さを知れば、知るほど、「日本はどうしてこんなに遅れているのか」という問をだれしも胸にいだかざるをえない。

その問いかけには必死なものがあり、それゆえ、たとえそれが間違っていようとも、ともかくもそれに対して納得のいく答えと解決の道を示すことのできる言説は、切実な問を投げかける者からすれば、「世界と私の生の意味」が何であるかを了解させてくれる「助け」として支持されずにはおかないはずである。講座派の理論が受入れられたのにはそういった背景があったと思われる。

ところで、現実において日本と西欧の間の懸隔が縮まってしまうと、あの問はそれがかつてもっていたような切実性を失わざるをえない。歴史学的な学問的興味としては成立しえても、現在の私たちの生き死にに関わりのある現実的な問としては、あの問が切実な意味をもつことはもはやないのである。そうなれば、講座派がかつてもっていた魅力、ないしは説得力がいつまでも持続されえないのは見やすい道理といえよう。

先回りしていえば、そのような状況が一九六〇年代から七〇年代にかけて実際に出現したとみてよいだろう。近代日本の主要な問のひとつがそこで現実的基盤を消失する時代がやってきたのである。残されたのは、もうひとつの問であるが、それはまだ暫くの間、「なぜ日本のみが近代化に成功しえたのか」というかたちをとって問われ続けることになる。すなわち「近代化論」や「日本論」の問にほかならない。このことは、第一の問と切り離されて、第二の問だけが問題になる場合、論理構造上は講座派と「近代化論」の間にはそれほど距離のないことを意味していよう。

しかし、時代はさらに進み、七〇年代から八〇年代にかけて韓国、台湾、香港などの諸国がめざましい経済発展をとげた。また、それを追うようにして、一一億の人口を抱える中国が経済的にはますます資本主義化の度を深め、いまや東アジア地域は世界の「経済成長の中心」とみなされるまでにいたっており、来るべき二一世紀は「東アジアの時代」となるにちがいないとさえいわれている。すでに現時点においては「なぜ日本のみが近代化に成功したのか」という第二の問も、もはや現実的意味を失ってしまったといわねばならないだろう。なぜなら、「近代化」に成功したのは、あるいは成功しつつあるのは日本だけにとどまるものではないからである。

かつての「近代化論」や「日本論」は明らかに現実によってのりこえられてしまった。いまや、これらの諸国の経済発展の秘密をその共通の文化である「儒教」（かつては「アジア的停滞性」の象徴ともいわれた「儒教」！）に求める見解が、「儒教ルネッサンス」として喧伝されるにいたっている。これはいわば「拡大版・再版近代化論」にほかならないが、ともかくも時代は大きく変ったといわざるをえない。近代日本の歴史を貫いて存在し続けたあの二つの問は、一九八〇年代末にいたって、ついにその終焉をむかえることになったのである。講座派理論が説得性を失うのも無理からぬことといえよう。

三　「アジア的停滞性論」のアポリア

前節では、マルクス主義の歴史理論が「アジア的停滞性論」との間に強い親和性を有していたことを確認した。しかし、ただたんに「アジア的停滞性論」と親和的な関係にあるというだけでは、まだ「アポリア」とはいえない。「アポリア」と呼ぶには、それだけでは不十分であって、他に条件を必要とする。

なによりも、価値評価が逆転し、「アジア的停滞性論」に対する否定的なまなざしが確立される必要があった。戦後になって、侵略主義、帝国主義のイデオロギーとして「アジア的停滞性論」が批判の対象となり、アジア蔑視の歴史観としてとらえる認識が生まれ、定着する。それによって、はじめてこの問題が「アポリア」に転化する条件が整うのである。

「アジア的停滞性論」が否定・克服の対象とみなされるには、言うまでもなく、戦争と敗戦という二つの契機を必要とした。戦争期において「アジア的停滞性論」はもっぱら日本のアジア侵略を正当化するイデオロギーとして機能し、アジアにおいて唯一近代化に成功し、独立を維持しえた日本は、自力では近代国家を形成しえない他のアジア諸民族を欧米列強の支配から保護するかわりに、アジアの盟主として彼らを指導、支配する権利を有しているとする「東亜新秩序論」や「大東亜共栄圏論」に歴史学的な論拠を提供したのであった。

それが敗戦を機に一転し、侵略戦争を支えたアジア認識として「アジア的停滞性論」は否定的にとらえられるようになる。とくに、過去の侵略戦争を反省し、その過ちを二度と繰り返さぬことをもって自らのレゾン・デートルとする戦後歴史学にとっては、「アジア的停滞性論」は「皇国史観」と並ぶ、是非とも否定・克服しなければならぬ前時代の歴史観となったといえよう。しかも、「停滞的」とされた当の中国で戦後革命が成功し、社会主義政権が成立したことも、「アジア的停滞性論」の誤謬をしめすものとして、その傾向に拍車をかけたのであった。

もしも、マルクス主義史学にとって「アジア的停滞性論」との親和性がたんに表層的なもの、あるいは外部の問題にすぎないのであれば、「腐った部分」としてそれを清算するのはしごく容易なことであったろう。それならば、「アポリア」など生じようのはずもない。

しかし、すでにみたように、マルクス主義史学と「アジア的停滞性論」との関係はそう簡単に切り離せるものではなかった。そのままでは必然的に「アジア的停滞性論」へと帰着せざるをえないものをマルクス主義史学は内在させていたからである。「アジア的停滞性論」への批判が、戦争期の体制的な歴史家やイデオローグへの批判のレベルにとどまっているかぎりでは、そのことが問題とされることはなかったかもしれない。しかし、「アジア的停滞性論」への批判がそのレベルをこえて進めば、マルクス主義史学に内在するその傾向が早晩問題とならないはずはなかった。

そうなれば、マルクス主義史学は一つのディレンマ、侵略的イデオロギーとして自ら率先して否定している当の「アジア的停滞性論」を自らもまた共有しているというディレンマ、あるいは自らの内なる「アジア的停滞性論」的傾向を克服しようとすれば、肝心の「世界史の基本法則」そのものを修正せざるをえないというディレンマに直面することになる。

このディレンマあるいは自家中毒症状を、以後本論では、戦後マルクス主義史学に固有のアポリア＝「アジア的停滞性論のアポリア」と呼ぶことにするが、戦前のマルクス主義史学においては「アジア的停滞性論」に対する否定的なまなざしはいまだ成立していなかった。それは「アジア的停滞性」そのものに対しては否定的ではあっても、アジア社会を停滞的と見ることに関しては何ら問題にしなかったから、「アジア的停滞性論」に対しては少しも否定的ではなかったのである。「アジア的停滞性論のアポリア」なるものは戦前のマルクス主義史学とは無縁であり、その意味で、すぐれて「戦後的」な現象、戦後マルクス主義史学に固有の問題といわなければならない。

このマルクス主義の歴史理論がもつ「アジア的停滞性論」との親和性の問題を、マルクス主義（者）の戦争責任問題ともからめて、最初に本格的に問題にしたのは非マルクス主義者の竹内好であったと思われる。竹内の批判は鋭く、マルクス主義の「アジア認識」は戦中・戦後を通じて少しも変化しておらず、その本質において「アジア的停滞性論」と同根であると断言してはばからなかった。

日本へ輸入されたマルクス主義は、日本人の対中国認識に関するかぎり、このような侮蔑感を固定する働きをした。なぜならば、それは生産力という単一な物質で歴史を割り切ることで価値を量る決定論として受けいれられたから。学者たちは、中国がいかに日本より近代化に立ちおくれているかを「科学的に」立証した。つまり、素朴侮蔑感にたいして科学的侮蔑感ともいうべきものを確立した。このマルクス主義によって武装された中国観が、客観的に見れば、日本の侵略を理論的側面から助けたことは、否定されない。（中略）
おなじ後進国でも、日本と中国では、近代化の型がちがう。この型のちがいは、歴史を図式に還元する公式主義者の目には見えない。かれらは質を量に変え、日本の近代と中国の近代に、歴史的段階の差をみとめるだけだ。そこで結果としては、中国にたいする侮蔑感を合理化することにおわってしまい、素朴侮蔑感の信奉者である侵略者にさえ利用された⁽²⁸⁾。

当時同様の批判は他にもあったと思われる。しかし、この竹内のマルクス主義批判は「アジア的停滞性論」との親和性を鋭く突くことにより、近代日本に固有のアジア蔑視観を共有する点において、マルクス主義が決して例外たりえないことを明白に指摘した点で画期的であった。このような外部からの批判によって、アポリアの所在は否応なく顕在化するにいたったと考えられる。

四　歴史学研究会と「世界史の基本法則」

原理的に言えば、戦後になって「アジア的停滞性論」への否定的まなざしが登場するとともに、「アジア的停滞性論のアポリア」もまた同時に成立したとは言えよう。しかし、そのことはマルクス主義史学の側において、アポリアをアポリアとする自覚が成立したことを必ずしも意味しない。

というのは、遠山の『戦後の歴史学と歴史意識』や成瀬の『世界史の意識と理論』を読むかぎりでは、敗戦から一九五〇年代前半にかけてのマルクス主義史学の黄金時代において、一部の中国史、朝鮮史の研究者を例外として、マルクス主義史学の側では「アジア的停滞性論」の問題をマルクス主義内部の問題としてとらえる意識のはなはだ薄かったことが確認されているからである。

すでに指摘しておいたように、一九六〇年代後半の遠山は、マルクス主義史学の内部の問題として、「アジア的停滞性論」を如何に克服すべきかが最重要課題であるとの問題意識を明確に保持していた。その遠山が、右に引用した竹内のマルクス主義批判とほぼ同じ頃に開かれた一九四九年の歴史学研究会大会について、次のように指摘していることからすれば、この時点では未だアポリアがアポリアとして十分に認識されるまでにはいたっていなかったと解されるのである。

アジア停滞性論―アジア諸民族の歴史の特質を発展が停滞的であることにみとめる―は、どのような克服がされるのであるか。時に中国革命の勝利という現実は、唯物史観をふくめたわが国歴史学界に支配的な中国社会停滞性論に根底的な反省を求めていたはずである。大会参会者の多く、とくに中国研究者は、こうした反省をもっていたであろう。しかし大会の報告・討論でこの課題が中心にすえられることはなかった。けだしこれまでの比較史的考察の方法では、この課題が分析の対象となることは困難であった⁽²⁹⁾。

この大会はその統一テーマとして「各社会構成における基本的矛盾」を掲げ、大会報告はいずれも唯物史観に立脚してなされた。その基調をなしていたのは、「社会構成体の継起的交替をなす普遍的な発展法則」（遠山）とみなされる「世界史の基本法則」論であった。この「マルクス主義史学が学界のなかで、はっきりとした市民権をえた」⁽³⁰⁾画期的な大会において、「アジア的停滞性論」克服の問題が大会の報告でも討論でも、とりあげられなかったことを、二〇年後の遠山は遺憾としたのである。

遠山の右の批判的叙述をうけた成瀬は、その理由を「すぐれて「講座派」マルクス主義的な「比較史の方法」をもってしては、「停滞論」克服の課題を分析の対象とすることがむずかしかったところに（問題が）あった」⁽³¹⁾としている。つまり、戦前以来の講座派的な方法が全盛をきわめていた当時にあっては、方法論的にみて、アポリアをアポリアとして自覚することがむずかしかったというわけである。

参考のために、それ以降の歴史学研究会大会に関する遠山の叙述を拾ってみると、一九五〇年度大会では、中国史研究者（西嶋定生や堀敏一）によって停滞性論の克服の問題が提出されかけたが、「だが討論はそうならなかった」（遠山前掲書八九頁）。

一九五一度大会の統一テーマは「歴史における民族の問題」であったが、「民族の問題で、大会において論じのこされたのは、（略）比較史の方法の再検討、そして中国停滞性論克服の問題であ」（同上一一六頁）った。つまり、この問題は大会では議論の対象とはならなかった。

遠山の記述によれば、ようやく一九五三年度大会（統一テーマは「世界史におけるアジア」）になって「アジア停滞性論の克服の問題」が中心的にとりあげられるにいたり、「一応積極的な成果をあげた」とされている。しかし、「それにもかかわらず参加者の多くは、失敗であったという評価をもった」（同上一四六頁）。この大会での議論の限界について遠山はこう述べている。

アジア停滞性論につらなるような日中比較論の見地から脱却する必要は、中国史研究者の側からとくに強調された。それならば、その脱却は、どのような問題のたて方をすることで可能となるのか。（略）それぞれの民族によって歴史発展の形態は異なり、民族的結集の方向がちがうこと、このことと世界帝国主義体制との関連の仕方の相違がどのような結果の差を生み出すかが明らかにされる必要があった。しかしそこまで報告も討論もすすまなかった⁽³²⁾。

この叙述からわかるように、この大会では、あの問（「日本と中国・インドの近代化の差異に関する問」）が再び問題にされたのである。しかも注目すべきは、日中の近代化・資本主義化の差異の原因を追求する形式で問を立て、それに答えるに、内部矛盾の展開を歴史の動因とするマルクス主義理論をもってすれば、必然的に「アジア的停滞性論」におちいりかねないとの、いわばこの問題の本質にふれる指摘がそこでなされたことであろう⁽³³⁾。この段階で、「アジア的停滞性論のアポリア」がマルクス主義史学の側でもようやく自覚されるにいたったとみることができる。

しかし、「アポリア」が自覚されるにいたったとしても、では、「アジア的停滞性論」におちいらずにマルクス主義的に日中比較論の問に答えるにはどうすればよいのかというと、それは容易に答えられそうもない問題であった。それに答えるには必然的に「世界史の基本法則」に見直しを迫らざるをえないのだが、未だこの段階では「世界史の基本法則」の普遍性、真理性への信頼は強く維持されていたから、簡単なことではなかったのである。あるいは、このような日中の比較の問をたてることがそもそもの間違いのもとだとすれば、どのように問をたてなおすべきなのか。それもまた容易に答えられそうもない問題であった。

その後、遠山の叙述を見る限りでは、この一九五三年度大会を最後として、一九六一年度大会になるまでは、歴史学研究会の大会で「アジア的停滞性論」克服の問題が議論の中心とされることはなかった。ここで、すなわちアポリアが表面化したところで、一まず中断されたとみてよいであろう。

五　中国史研究者の模索―西嶋定生―

敗戦直後のマルクス主義史学において、戦争期における「アジア的停滞性論」が果たした侵略的役割への反省から、いちはやくその批判と克服をめざして動き出したのは、中国史研究者であった。その代表例として西嶋定生の一連の研究があげられる。

西嶋の停滞論批判の方向性は、中国史においても西欧においてと同様、普遍的な「世界史の基本法則」にしたがって、内在発展的に歴史が段階的に進行してきたことを中国史の具体的事実に即して実証し、それによって中国社会を古代以来まったく歴史的発展の見られぬ停滞的社会とする「絶対的停滞論」（マルクス主義の流れでいえばアジア的共同体論、あるいはウィットフォーゲル流の水利社会論・東洋的専制主義論）を打破せんとするものであった。いうなれば、マルクス主義の歴史理論に忠実にそれを中国史の現実に適用することによって、「アジア的停滞性論」は克服されうるとの立場に立って、それを学問的に実践しようとしたのである。

その明清期中国農村棉業史に関する実証的な研究において、西嶋は、明代においてすでに長江下流のデルタ地帯では自家消費と貢納のための生産の枠をこえて余剰生産物を市場に投入しうるまでに棉業が発展し、商品生産としての農村家内工業が存在していたことを証明した。西嶋が自ら表明するように、これには「停滞的と簡単に性格づけられた中国の歴史的特質に対抗する事実の存在」を証明することで、「中国社会が古代において固定したという停滞性理論に対する反措定」を定立するとの意味がこめられていた⁽³⁴⁾。

のちに、西嶋の試みは消極的な「停滞論批判」にとどまっていると批判した田中正俊でさえ、「当時、西嶋らが事実をもって反措定を提出した意義は大きい」⁽³⁵⁾と認めたように、「アジア的停滞性論」克服の試みとして西嶋の研究を位置づけることに異論をはさむ余地はない。

しかしながら、中国社会における資本主義の萌芽の有無について、西嶋がその実証的研究から引出してきた結論は、羽仁や服部の予想したところとほとんどかわらなかった。明清期の農村棉工業の実態と、大塚久雄らによって類型化されていたほぼ同時期のイギリスをはじめとする西ヨーロッパ農村工業とを比較した西嶋は、東洋的専制権力と地主制と商業資本が三位一体となって作用する、二重・三重の桎梏（とくに土地制度による緊縛）のもとにおかれていた中国農村棉工業は、零細過小農民の家内副業として終始し、単純再生産の限界を超えて資本蓄積を可能にする途を断たれており、そのためマニュファクチュア経営はもちろんのこと、問屋的前貸制度の発達すらみることができず、そこには近代的資本主義体制へと発展していく内在的契機を見出すことはできないと、結論したのである⁽³⁶⁾。

岩井茂樹が言うように、西嶋は「商品生産を目的とする農村工業の発展という史実の発掘と、そこへいたる因果関連を遡究することによって、中国社会停滞論をあざやかに打破した」⁽³⁷⁾のだが、他方において「このような類型としての農村工業においては、それ自体に、あるいはまたそれが派生したもののうちに、近代的形態の萌芽は発生しない」⁽³⁸⁾と結論することによって、「もう一つの「停滞性」」（岩井）に行き着かざるをえなかったのである。

停滞性論（絶対的停滞論）を打破せんとする試みが、結果として「もう一つの停滞性論（相対的停滞論）」に帰着せざるをえないとしたら、これほどマルクス主義に内在する「アジア的停滞性論のアポリア」の困難性と戦後マルクス主義史学の自家中毒症状をよく示すものは、他にないといえよう。

一方は氏族制以来の旧い社会関係の残存にこだわり、他方は「世界史の基本法則」の普遍的貫徹による前進的な社会発展を強調するというニュアンスの差はあるけれども、西嶋の研究は、その結論だけをとりだしてみれば、戦前に羽仁が「東洋における資本主義の形成」において理論的に組み立てた議論とそれほどへだたるものではない⁽³⁹⁾。

ちがうとすれば、羽仁が理論的要請によって、中国においては存在するはずがないと考えた資本主義の萌芽の有無を、中国の歴史的事実に即して実際に確かめようとしたところだといえようが、その西嶋が到達した結論は、羽仁の理論的予想の正当性を証明するものだといってよかったのである。

羽仁の議論が「アジア的停滞性論」、とくに「相対的停滞論」と親和的であったことはすでに述べたとおりである。羽仁の理論について述べたことは、西嶋のそれにもほぼ同様に妥当するだろう。「なぜアジアでは、封建制から資本制への移行・発展が西欧のようには進まなかったのか」という問に対して、西嶋もまた「中国には資本制へと自力で発展していく内的契機が存在しなかったからである」と答えたのだった。

すでに述べたように「継起的発展段階論」に立つかぎり、この問が問われるのは避けられないことであった。また、「封建制の内部にその崩壊の契機＝資本主義への萌芽が生れ、その契機が発展成長していって、ついに封建制を揚棄するにいたる」とする「封建制から資本主義への移行論」を正しいと認めるかぎり、その発展過程の差異の原因をアジアの前近代社会の内部に求める「内因説」に立つ以外には、答えの成り立ちようがないこともすでに指摘しておいた。そしてアジアの後進性の由来をもっぱらアジア社会の内部に求める「内因説」の採用は、羽仁、服部や西嶋の例に明らかなように、結果的には「もう一つの停滞性論」に陥ることを意味したのである。

ところで、西嶋が中国農村工業には資本主義的発展の契機は存在しえなかったと結論を下したのは、主として大塚久雄のイギリス初期資本主義の研究に依拠してのことであった。大塚の提示したほぼ同時期のイギリス農村工業の姿と比較してみて、イギリスに見られる諸契機（「中産的生産者層」の広範な存在とそれを培養土壌として発芽・成長した「農村の織元」＝「自由独立の毛織物マニュファクチュア」）が当該期の中国には存在しないことをもって、上述のような判断が導かれたのである。

しかしながら、「アジア的停滞性論」の克服をめざして、明清期の中国農村工業に資本主義の萌芽を求めんとした西嶋が、その判断の基準をほかならぬ大塚のイギリス初期資本主義研究に求めたことは、今にして思えば、それ自体がそもそもの背理であったといわねばなるまい。言うなれば、それは「木に縁って魚を求むる」にひとしい行為だったのである。

もともと大塚の研究は次のような問に対する解答という性格をもっていた。

何故に、毛織物工業（大塚によれば、毛織物工業の持続的繁栄は、「商業革命」以降の世界商業戦をイギリスが最終的に制覇するための必要不可欠な基礎条件であった―永井）がスペインにおいては一旦隆昌に赴き乍らあわただしくも衰退し、オランダにおいても一世紀に亙る繁栄ののち之亦腐朽し去り、フランスについては遂に停頓状態を脱しえなかったのに対比して、イギリスにおいてのみますます躍進を続けつつ最先に産業革命に到達しえたか、其の原因は如何なる事実に求むべきか⁽⁴⁰⁾。

つまり、講座派の場合とは対照的に、「どうしてほかならぬイギリスにおいて最初に資本主義が成立したのか」というのが、大塚の研究の前提となる固有の問であった。言うまでもなく、これは、周知のマックス・ウェーバーの問の一ヴァリエーションにほかならない。

大塚はこのウェーバー的問に対して、「近世西欧諸国のそれぞれに固有な初期資本主義の特殊的「構造」の相違が、或る場合にはマニュファクチュア（産業資本）の発達を許容乃至促進し、或る場合には之を阻止することによって、寧ろ結果として既述のような毛織物工業の生産力拡充程度の距りを惹起したと解すべきである」⁽⁴¹⁾と、その由来をそれぞれの国の初期資本主義の「構造的類型」の差異に求めた。そしてそのうえで、イギリス初期資本主義の「構造的類型」がいかなるものであったかを詳細に分析し、定式化したのだった。

このことは、大塚が明らかにしたイギリス初期資本主義の「構造的類型」なるものが、じつはその前提となる「問と答え」の枠組みによって規定されており、その本質からして、そもそものはじめからイギリス以外においては見出すことのできない、特殊な「構造」にほかならないことを意味していた。なぜなら、もしもそのようなイギリス的「構造的類型」がイギリス以外のどこにおいても、普遍的に存在する、あるいは存在すべきものであるならば、先ほどのウェーバー的問すなわち「なぜイギリスにおいて最初に資本主義が成立したのか」に対する答には決してなりえないからである。

そう考えるならば、西嶋の中国農村工業の研究は、世界市場産業である毛織物業とローカル市場産業にすぎぬ綿業とを同列に扱うという誤解もさることながら、もともと見つかるはずがないものをさがしもとめる徒労の作業に等しかったというべきであろう。

当時の西嶋が、「世界史の基本法則」論に忠実に、イギリスにおける封建制から資本制への移行過程を以て普遍的な一般現象としてうけとり、地域的な偏差は考慮しなければならぬとしても、基本的にはアジアにおいてもほぼ同様な過程を経て封建制から資本制への移行が見られるはずだと考えていたのはたしかである。他方、大塚の研究の枠組みを形作っていたウェーバー的問は、元来「資本主義の発生（少なくともその自生的成立は）は特殊ヨーロッパ的現象であって、他の地域ではありえない」との判断を前提に有しており、「世界史の基本法則」の発想とは論理的に相容れぬ関係にあった。

つまり西嶋の努力は、論理的にいってそもそも相容れぬ関係にある二項を接合させようとするものだったといわざるをえないのである。

西嶋が「停滞論」を克服せんとして「もう一つの「停滞性論」」に陥ったとすれば、その原因は、もともとはイギリス的特殊性にすぎない「構造的類型」を普遍的・一般的な基準に採用しようとしたところに求められよう。のちに西嶋の「停滞性論批判」の方法的限界を批判し、「帝国主義批判」を欠落させた「外在的批判」にすぎぬと論じた田中正俊が問題にしたのも、まさにこの点であった。田中は、西嶋が大塚史学に依拠して「そこに設定された「型」を基準としてこれを中国農村工業に適用する比較史的方法を用いた」⁽⁴²⁾ことが、その「停滞性論批判」を不徹底なものに終わらせた要因だと論じたのである。

しかしながら、マルクス主義の「世界史の基本法則」とウェーバー的問題意識という論理的には相容れぬ関係にあるものを接合させたかどで西嶋を責めるのは、いささか酷というべきかもしれぬ。なぜなら大塚史学には講座派マルクス主義の継承者という側面も存在したからである。

成瀬治は、大塚史学と講座派マルクス主義の関係について、山田盛太郎の『日本資本主義分析』にみられるように、すでに戦前の講座派マルクス主義において、日本の資本主義が「封建的諸関係を単純に解体させることなく、むしろ封建的な諸要素を構造的に内包しつつ発展するという洞察が、マルクス主義の名のもとに西ヨーロッパの資本主義を「典型」ないし「基準」と見なす観点と、特徴的に結びついてた」のであり、マルクス主義の発展段階論を補うものとして「世界史的連関における資本主義的発展の「類型的把握」」がその内部に組込れていたと、大塚史学と講座派との類縁関係を指摘している⁽⁴³⁾。

それにしたがえば、大塚史学は、学問的・方法的に戦前講座派の継承者ともいうべき側面をもっていたわけであり、マルクス主義を基礎としつつも、同時にウェーバー流の「類型論」を駆使するという両側面をそなえていたがゆえに、かえって敗戦直後の歴史学において大きな役割をはたしえたのだとも考えられる。

いずれにせよ、本来は相容れぬはずの二項が大塚史学において接合しえたとすれば、それは封建制から資本主義への移行を当該社会の内部矛盾の弁証法的展開としてとらえるマルクス主義の「内成説」的見地と、資本主義発生の契機を西欧社会の内的構造に求めるウェーバー的方法とが、イギリスあるいは西欧という場でうまくシンクロナイズしたからであったと言えよう。

しかしながら、考察の対象が西欧の外部であるアジアにまで拡張されたとき、はたしてその幸福なる同期がそのまま維持されるかどうかは保証のかぎりではない。すでにみたように、そこでは両者の接合が「もう一つの停滞性論」へと帰着せざるをえないことによって、かえってマルクス主義の自家中毒症状が露呈しかねない危うさを有していたのである。

六　江口朴郎の修正理論

西嶋が右に述べたような「アジア的停滞性論」克服の試みを提示しつつあった時、「アジアはなぜ後進的なのか」という問に対して、今まで見てきたマルクス主義史学の方法とはまったくちがったやり方で解答（正確に言えば解答の萌芽）を提出しようとした研究者がいた。それは江口朴郎である。江口は一九四九年に発表した大塚久雄批判の論文で、次のような見解を示した。

現在世界各地にある後進的な社会はただ先進国にたいして平行的に後れているのではなく、むしろ資本主義の帝国主義的発展によってこそ進歩をはばまれているのである⁽⁴⁴⁾。

アジアが後進的なのは、先に資本主義が高度に発達した帝国主義国の及ぼす阻害的な力により、後進的社会の発展がおしとどめられ、歪められているからである。これが江口の答えであった。

この答え方が従来のものと大きくちがっていることは容易に納得されるであろう。今まで見てきた論者のほとんどすべてが、アジアの前資本制社会の内部的な構造、そこにおける封建制の解体の度合いないしは資本主義の発達の程度または類型に答えを求めようとしていた。服部之総が典型的といえようが、そこでは「資本主義の発達が未熟であったために、必然的に植民地とならざるをえなかった」という理解が一般的だった。ところが江口はその因果関係を転倒させたのである。「植民地化されてしまったがゆえに、封建的・後進的な状態にとどまらざるをえなかったのだ」と。これは大きな視線変更であった。

江口の見解は、翌一九五〇年の二つの論文（「帝国主義時代における発展段階」「帝国主義の諸問題」）でよりまとまったかたちをとるが、その内容からいえば、これは羽仁五郎が「東洋における資本主義の形成」で萌芽的に提示していた論を受け継ぎ、より発展させたものと見ることができる。羽仁は、アジアに進出してきた先進資本主義は、旧い封建的諸関係を決して破壊しようとはせず、むしろそれを温存し、そのためアジアでは資本主義の支配下でかえって旧来の封建的諸関係が強固に維持されると論じたのだった。その視点を受け継いだ江口は、次のように、資本主義・帝国主義の反動的側面を強調する。

本来、近代資本主義の発展が、一方で封建社会を打破するための民主主義革命を通じて行われながら、決してそれを完遂したのではなく、内外に対して新しい支配関係の下に、被圧迫階級と植民地大衆とを創出する歴史的過程であったことは紛れもない事実である。（中略）
資本主義の発展の過程は、必然に新しい国際的契機を作り出して行くと共に、資本主義自身の矛盾の中に反動的な側面を持っている。従って世界史の中で行なわれる個々の資本主義発展の諸過程は、常に反動的な封建的諸要因に対して、より進歩的な資本主義が対抗しているという一面のみからは把握され得ないであろう。そこでは資本主義自体の反動性が社会の前進を阻む一つのモメントとして作用している。（中略）
植民地的従属地域の社会に、広く旧権力が温存され、社会の前進が阻まれることはいうまでもない。（中略）かくて明らかであるのは、帝国主義時代が一面的にあらゆる旧時代の体制を温存するとまではいえないまでも、少なくとも旧体制はその存在理由を全く帝国主義体制に依存しているとはいえるであろう。そこには封建的社会体制、あるいはそれ以前のものさえ存在する。（中略）それらは例外的に遅れた社会として残っているのではなくそれら全体を含めたものが帝国主義時代の現実といわなければならない⁽⁴⁵⁾。

帝国主義は後進的社会の旧体制を温存させる。言い換えれば、後進的社会の旧体制は資本主義の未発達によるものではなくて、資本主義（正確には世界資本主義）そのものの産物だというのである。

西欧とアジアにおける資本主義的発展の差異につき、それまでのマルクス主義史学に伝統的な方法では、それぞれの社会の前資本制社会の内部構造に原因を求める「内因説」に立って説明がなされてきた。ところが江口にあっては、その原因は先に資本主義に到達した先進国が後進国に及ぼす阻害的な力に求められるわけだから、アジアのほうから見れば、これは「外因説」に立つ議論といわねばなるまい。

江口の議論からすれば、アジアの後進性の原因はアジア社会の内部にではなくて、欧米の先進資本主義ないしは帝国主義というアジアの外部の要因に求められる。アジアが停滞的だとしたら、それは外部の他者によってもたらされた「強制された停滞性」にほかならないのである。よって、原理的にはここからは「アジア的停滞性論」はでてこない。マルクス主義史学にまとわりついていた「アジア的停滞性論」との親和性が断たれる道筋が、ここで江口によって提起されたと言ってよいであろう。

先述の、西嶋定生の「アジア的停滞性論」克服の試みの限界性を批判し、「「アジア社会停滞論」の根本的批判とは、アジアの近・現代史の現実における列強資本主義・帝国主義のアジア支配とその「理論」とを、アジア諸民族の反資本主義・反帝国主義闘争の具体的過程に即して批判することにほかならない」⁽⁴⁶⁾と主張した田中正俊は、この江口理論の継承者にほかならなかった。

江口の視線変更は、「資本主義の発展」ないしは「封建制から資本制への移行」過程についての理解の修正を伴っていた。それまでのマルクス主義史学の理解では主として一国ないし一社会の内部経済における資本主義的要素の内的発展に着目し、封建的社会の内部からそれが析出されてくるとする「内部矛盾の弁証法的展開論」＝「内成説」に立っていた。この見地からすれば当然、先進資本主義による後進国への作用あるいは両者の相互作用は、「外的要因」として考慮の外におかれざるをえない。服部流にいえば、「外的要因」を問題にするのは「憎むべきブハーリン主義」にほかならなかった。

しかし、江口の議論では先進資本主義による後進国への影響、とくにその発展を抑制する作用、言い換えれば「外的要因」が重視される。なぜなら、近代資本主義は「国外市場の近代的開発を必要とし、国際的従属関係を前提として立っている」⁽⁴⁷⁾世界史的現象にほかならないからである。

江口は、資本主義の世界的性格が如実に現れる「帝国主義時代において、それぞれの社会の発展段階が、一国の社会の発展の問題として図式的観念的に固定した発展段階の尺度では論じ得ない」⁽⁴⁸⁾と、従来のマルクス主義史学の方法を批判した。一国史レベルでは資本主義の発展の全体像を把握することはできないというわけである。それどころか、「社会経済史学諸派の特有な」一国史的発展段階論は、それ自体が帝国主義時代の産物であり、「帝国主義との妥協を意味する」社会民主主義に通ずるものだとまで言って⁽⁴⁹⁾、厳しく批判したのであった。

のちに流布される表現を用いれば、江口はここで従来のマルクス主義の方法を「一国史的発展段階論」として斥け、「資本主義の世界性」と「国際的契機」に着目することの重要性を主張したと言えるであろう。一国史レベルでは資本主義の発展の全体像を把握できないとする点で、江口の考え方には、のちの世界資本主義論あるいは従属理論に通ずるものがあった。

七　遠山茂樹の「世界史像の再構成」

江口が糸口を与えたこの新しい立場は、その後の展開の仕方によっては、二つの相異なる方向に進む芽を内包していた。一つは、江口の問題提起を受入れ、「世界史の基本法則」を修正しつつも、原則的にはそれを遵守する方向であり、もう一つは最終的にその否定へといたる道である。ちなみに江口自身は、「一国史的発展段階論」を非とはしても、決して「世界史の基本法則」そのものを否定したわけではなかった。

ここで問題とするのは、帝国主義時代における発展段階の意義なのであるから、原始社会、奴隷制社会、封建社会、資本主義社会というふうな、歴史社会の一般的な発展段階は、既に承認されているものと前提して議論を進めていいと思う⁽⁵⁰⁾。

この引用からわかるように、江口の理論は「世界史の基本法則」＝「唯物史観の公式」の正当性を大前提に組み立てられていたのであり、ただ、帝国主義時代の現実を把握するには、資本主義の発展を一社会の内部の問題として考えるよりも、諸社会の織りなす相互作用の場において考察することがより重要だとしただけである。

江口理論のこの側面、あくまでも「世界史の基本法則」の正当性を支持する態度を貫けば、アジアにおいても本来ならばイギリスなどと同じ様に資本主義的発展のコースを歩むはずだったのが、先進資本主義ないし帝国主義の阻害的圧力によりその発展が押しとどめられ、歪められた結果、現在のような後進的状態におちいってしまったのだ、との結論にいたるのはきわめて自然なことといえよう。帝国主義による発展抑制、「歪み効果」論である。

先述のように、このような考え方からは決して「アジア的停滞性論」はでてこない。いや、少し考えればわかるように、「アジア的停滞性論のアポリア」を回避しつつ、マルクス主義の「世界史の基本法則」を原則的に維持するには、このような見地に立つほかないというべきである。なぜならば、帝国主義あるいは世界資本主義の及ぼす「歪み効果」によって発展コースが歪められるとの理解は、その論理を裏返せば、「もし、そのような作用がなければ、アジアにおいても遅ればせながらも、西欧と同様の近代化・資本主義化の道が実現されていたにちがいない」との命題に帰着するからである。

「歪み効果」論には、「世界史の基本法則」はそのとおりに実現されなくとも、可能性においてやはり普遍性を有するとの含意が内包されているのである。封建制から資本制への移行の過程が「世界史の基本法則」どおりに進んだ実例が、非西欧世界では皆無に等しいという歴史的事実そのものが、むしろその法則の普遍性、一般性を証明する根拠となされているといえようか。一種の神義論的パラドクスといえなくもない。

この江口の提起にはじまる「世界史の基本法則」の修正理論は、その後、封建制から資本制への移行過程、あるいは一般的に歴史の発展過程を、それぞれの社会に内在する発展法則（＝内的・一国史的契機）と諸社会の相互作用を通じて実現される世界史の法則（＝外的・国際的契機）との「合力」としてとらえる理論として定着する。先にあげた田中正俊は江口理論の継承者の一人だったが、次に引用する梶村秀樹もそうである。

世界史は単なる一国史の寄せ集めではなく、史的唯物論においてかなり明快に定式化されている一国における社会構成の継起的展開の論理とは次元の異なるものとして、世界史それ自体の法則性・諸国家間の関係の法則的展開の論理を究明する理論領域があるべきなのである。（中略）一国史における歴史事象は、つねに世界史の論理に条件づけられており、いわば世界史的法則性と一国史的法則性の合力なのだから、前者を独自に解明することなしには、真に具体的な個々の一国史的史実の意味を確定することはできないはずである⁽⁵¹⁾。

右の引用は一九八一年の著作からとったものだが、ある時期（一九七〇年代）以降、マルクス主義史学の理論解釈はむしろこの修正理論を正当とみなす方向に変っており、今では戦前から一九五〇年代まで優勢であった「世界史の基本法則」の本来の解釈（スターリン主義的解釈）のほうが「一国史的発展段階論」として否定・棄却されてしまっているといってよい⁽⁵²⁾。江口の提起した問題意識を受け継ぎ、「世界史像の再構成」を模索することで、田中や梶村の先達としてこのような修正理論の定着に大きな役割を果たしたのが、ほかならぬ遠山茂樹であった。

江口の問題提起とほぼ相前後して、マルクス主義史学の「世界史の基本法則」論はじつはヨーロッパ的価値の一元性の上に、歴史を単線的発展段階論的に構成する西洋中心主義の世界史像にすぎぬのではないかとの疑念を抱き、アジア文明圏の独自性と文化の多元性を積極的に認めようとする立場に立って新しい世界史像を提出した歴史学者がいた。それは非マルクス主義者の上原専禄であった。

言うまでもないが、このような上原の問題意識からは「アジア的停滞性論」は発生しない。いや、上原は西洋中心主義の世界史像は必然的に「アジア的停滞性論」に結びつかざるをえないと見て、それを克服すべく、新たな世界史像を構成しようとしたのである。上原の批判を敷衍して言えば、普遍性、一般性を誇る「世界史の基本法則」が暗黙裡に前提としている西洋中心主義的な歴史観こそが、「アジア的停滞性論のアポリア」を産み出す根源にほかならないのである。

上原の描いた世界史像は、簡単に言えば、二〇世紀の「現代世界」を「一体化された世界」（「単一の世界」としての世界）としてとらえ、この「一体化された世界」の形成・発展史こそが「世界史」にほかならぬと考えるものであった。人類の起源から現在にいたる時間的経過がただちに「世界史」を構成するのではなくて、現代世界がまさにそうであるところのこの単一世界がいかに形成され、どのような展開を経て現在にいたったのか、その叙述こそが上原の言う「世界史」なのである。

この「一体化された世界」（の萌芽）が地球上にあらわれるのは、たかだか一六世紀以降のことにすぎない。それは「地理上の発見によって準備され、資本主義の発展によって動機づけられたところの、ヨーロッパによる諸世界の統括と支配というかたちの下に」⁽⁵³⁾まず出現した。それ以前には「一体化された世界」（単一世界）は存在せず、固有の文化と地域的なまとまりを有し、互いに独立の複数の歴史的世界（この時点の上原が措定したのは「東アジア世界」「インド世界」「イスラム世界」「ヨーロッパ世界」の四文明圏であった）が併存しあうにすぎなかった（＝「多世界の併存」）。

この考え方にしたがえば、それぞれの文明圏は独自の歴史的発展とそれに対応する固有の時代区分を有することになる。この「多世界の併存」状態が世界資本主義の発展により「単一世界」へと構造転換させられる時代が「近代」であり、「ヨーロッパによって統括・支配されるかたちで成立した単一世界」が、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの諸民族のナショナリズムの力によって、その支配・従属の内部構造が否定され、もう一度構造転換を経験するのが「現代」だと、世界史の流れをそう上原はとらえたのである。

「多世界の併存」から「単一世界」へと、世界構造の変容に着目する上原の世界史像は、社会構成体の継起的発展を基軸におく「世界史の基本法則」とは発想が大きく異なり、マルクス主義史学の世界史理論に対する明白な挑戦と見なすべき性格を具えていた。にもかかわらず、政治的な考慮もあってか、マルクス主義史学の方からは積極的な批判はなされなかった⁽⁵⁴⁾。それどころか、この上原理論を取込んで、「世界史の基本法則」を修正しようとする試みが遠山茂樹によってなされたのである。遠山「世界史把握の視点」（一九六六年）がそれであった。

まず遠山は、従来の「アジア的停滞性論」克服の試みが大きな限界を有していたことを率直に認め、その克服のためにも「世界史の基本法則」は修正されるべきだと主張する。遠山によれば、「世界史の基本法則」は、アジア諸民族の歴史をもって西欧の歴史とはまったく異質であるとか、停滞性がその最大の特色であるといった戦前の「アジア的停滞性論」を打破した点で、一定の積極的意義を有してはいたが、それだけでは「アジア的停滞性論」の全面的克服とはならず、西欧の歴史を典型とすることで、かえって西欧とアジアの異質性の強調につながりかねない「特殊類型」（＝アジア的特殊性）の検出に堕してしまう傾きをもっていた。

なぜならば、「原始共同体的構成体から共産主義的構成体にいたる社会構成体の継起的交替という一国史の発展段階論を主な内容とする」「世界史の基本法則」においては、「西ヨーロッパ諸国の歴史発展が典型とされ、これとの対比において、日本ないし中国の歴史の発展段階が規定され、またその特殊的非典型的性格が指摘され」る「比較史の方法」を主たる方法として用いていたからである。

言い換えれば、従来の研究はすべて「なぜアジアは西欧に比べて発展が遅れてしまったのか。なぜアジアでは、封建制から資本制への移行・発展が西欧のようには進まなかったのか」という、周知の問に対する解答という性格をもち、その問答の形式に逆に規定されていたところに限界があったというのである。

「比較史の方法」を中心においた点に克服すべき限界があったと反省した遠山は、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの民族解放闘争の高まりつつある現在、

欧米諸民族の歴史発展を唯一の尺度として非欧米民族の歴史発展の非典型・後進を測定し、その結果、欧米の「先進」アジア・アフリカ・ラテンアメリカの「後進」を固定化することとなり、あるいはいわゆる「後進国」「未開発国」が欧米諸民族によって指導され、その後を追うことが不可避とされる、そうした考えを導き出す世界史の理論は打破されなければならない⁽⁵⁵⁾。

として、「世界史の基本法則」を批判した。「アジア的停滞性論のアポリア」を遠山はよく認識しており、それが彼をして「世界史像の再構成」すなわち講座派理論の修正へと赴かしめたのだといえよう。

遠山は「歴史発展の普遍的法則は一国史内部の展開においては、典型的には現象しないのが一般的」であると、「世界史の基本法則」の解釈を大きく修正する。

大塚久雄が、『西洋経済史講座』（一九六〇年）において、一国史の範囲内では、典型的な発展段階は立証不可能であり、段階移行の典型的な過程は、その中心地域を変えつつ進展すると、経済発展段階の普遍史的シェーマを、広義のヨーロッパ地域範囲内での各段階の中心的地域の移動としてとらえた（オリエントのアジア的貢納制社会→ギリシャ・ローマの奴隷制社会→ヨーロッパの封建制社会→西ヨーロッパの資本主義社会）「辺境革命」論的な立論を新たに展開したのをとりあげた遠山は、「歴史発展の普遍法則」が一国史内部に典型的に現象しないのは、「ある地域で新しい生産様式が早期かつ強力に成長すれば、その他の地域での移行は、その影響・圧力をうけ、ある場合は促進され、ある場合は逆に阻止され、また早熟し、ないし歪曲される」⁽⁵⁶⁾ためであると、江口朴郎流の相互作用による「歪み効果」理論にその原因を求めたのであった。

当然ながら、この立場からは、アジアが後進的なのはアジアに内在するアジア的特殊性に由来するのではなくて、欧米で資本主義が「早期かつ強力に成長し、その影響・圧力を受けて、生産様式の移行が阻止、歪曲されたがためだ」という答になる。江口理論を踏襲することによって、遠山は「アジア的停滞性論のアポリア」を克服せんとしたのである。ここまでならば、遠山はたんなる江口理論の継承者にすぎないが、そこにとどまらずにさらに「上原理論」を摂取することで、「世界史の基本法則」とは異なる新たな世界史像を仮説として提出したところに、遠山の新しさがあった。

遠山は「世界史の基本法則」の内容を形成している社会構成体の継起的交替論は「一国史の発展法則」であって、決して「世界史の法則」となりうるものではないと考えた。そうすることによって、社会構成体の継起的交替論の普遍性、一般性を事実上否定したのである。遠山によれば、世界史とは単なる一国史の総和ではなくて、「経済発展段階、社会経済構成体を異にする諸民族相互が、有機的関連をもつ構造的複合体」であり、それ自体が独自の構造と発展法則をもち、「その世界史の地理的範囲は、その内部構造とともに、時代によって異る」そういった何ものかなのであった。現在のわれわれには「世界史＝世界システム」とした方がわかりよいだろう。

世界史を構成する各国史の特殊具体的な様相は、「一国史の発展法則」にしたがう「国内的条件」と「その時代の世界史（中略）の構造、その発展法則、そこから受ける国際的条件」との「からみあい」（＝「合力」）によって規定されるわけだが、肝心の「世界史総体の構造とその発展の究明は、まだ頼るべき既成の研究成果をもたず、今後手さぐりで研究を出発せねばならぬという悩みがある」⁽⁵⁷⁾と、遠山はそれまでのマルクス主義史学の破産ぶりを暗に認めたのだった。その上で、世界史の構造と発展に関する「手さぐりの」試論として遠山が提出したのが、上原の理論から学んだ次のような仮説であった。

◎世界史の発展に関する遠山仮説

「古代世界帝国の時代」（各世界帝国の領域を単位とする複数の歴史的世界の並立）
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　↓
「古代世界帝国解体過程の時代」（前代の歴史的世界のまとまりが解体し、それぞれの諸民族が古代帝国の拘束から自立する）
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　↓
「資本主義の世界市場形成の時代」（資本主義の世界市場形成によりはじめて単一の世界史が形成される。世界資本主義の法則と前近代的社会経済構成体諸民族の歴史の発展法則との激突の時代、一六世紀以降一九世紀末まで）
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　↓
「帝国主義の時代」（単一の世界史が確立され、どの民族の歴史発展も世界史の発展法則に包摂される時代、一九世紀末から第二次世界大戦まで）
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　↓
「帝国主義崩壊過程の時代」（世界体制は、帝国主義と社会主義に分裂し、前者は崩壊しつつあり、後者は増強されつつある。旧植民地民族の新興国の大半は、まだいずれの体制にも完全に包摂され切ってはいない）

現在からふりかえれば、最後の段階のところで、大はずれになってしまったが、「上原理論」に依拠したこの世界史像は、アジア史をその内部に組込むことができている点で、世界史の総括としてはマルクス主義史学の「世界史の基本法則」よりは優れているといえよう。

また、後に登場する世界システム論やＫ・ポラニーの経済人類学（互酬経済、貢納制社会、市場経済の三類型）とも適合的であり、少なくとも「単一世界の形成」までの段階に関しては、大筋としてはこの方向をより発展させるべきであったと私は考える。しかし、この世界史像は荒削りの仮説として提出されただけで、遠山自身の手ではそれ以上の展開をみないままに終わってしまった。

遠山は、一九五〇年代に発表した自らの明治維新論をこの新しい観点から修正したあとは⁽⁵⁸⁾、自由民権運動の掘り起こしとその顕彰作業へと関心を移し、この問題からは離れたように思われる。

遠山がその「世界史像の再構成」をそれ以上に展開しなかったのは、彼の専門が日本史それも明治維新史プロパーであったため、守備範囲を大きく逸脱しかねない危険性を賢明にも避けたということなのかもしれない。しかし、そのほかにも理由があったのではないだろうか。後で述べるように、この方向性を突詰めて行けば、社会構成体史的な「一国史的発展法則」そのものが、雲散霧消し、もはやマルクス主義史学とはいえなくなるおそれが見えたために、遠山にはこれ以上の理論展開は不可能だったのではないか、そう推測される。

もちろんこの推測はまちがっているかもしれないが、ただひとつ確認しておきたいのは、右の説明からもわかるように、遠山は「世界史の基本法則」を批判し、それを修正しはしたが、マルクス主義の法則性への信仰と社会構成体史観を根本的に捨て切れないために、決してその全面否定にまでいたることはなかったということである。遠山の「世界史像の再構成」も。その意味では江口にはじまる修正理論の枠組みを少しもこえるものではなかった。そのことは遠山の『明治維新と現代』（一九六八年）の次の記述を見れば明らかである。遠山にとっては、どうしてもこえられぬ一線というものがあったにちがいないのだ。

明治維新は、世界史の所産である。世界史とは、世界の諸民族の歴史に普遍的な法則が、日本の封建制から資本制への移行過程にも貫徹しているという意味と、世界資本主義、それに引きつづく世界帝国主義の体制の構造と発展法則によってうみだされ規制されたものだという意味と、この二様の意味が、結合した意義においてそうである。前者は明治維新の国内的条件、国内的必然性、後者は国際的条件、国際的必然性といいかえてもよい。明治維新の歴史は、国内的条件と国際的条件の複雑なからみあいのなかで進行する。（中略）
アジア諸民族にあっても、自力で近代化する能力がなかったのではなく、開国前夜の封建社会内部にブルジョア的発展の萌芽が育っていたことをみとめようとする動向は、日本の歴史学界でも、戦後にあらわれてきた顕著な特色である。この見地に立つとき、マルクスのいう「社会的革命」が同時に近代の自生的萌芽をおしつぶしたという側面を重視しなければならない⁽⁵⁹⁾。

しかしながら、ひとたび先進資本主義がそれ以外の社会へ及ぼす作用を認めるならば、あるいはもっと一般的に、歴史の発展における諸社会の相互作用すなわち広い意味での「世界交通」の問題に目を開くならば、さらに「一国史の発展法則」とは別個に、「独自の構造と発展法則を有する世界史」（これは「世界システム」と互換性を有する概念といえよう）なるものを想定するのであれば、その論理の行き着くところ、ひとは、少なくとも「封建制から資本制への移行過程」に関しては、マルクス主義史学の「内成論」はもはや成立不可能であること、「世界の諸民族の歴史に普遍的な法則が、日本の封建制から資本制への移行過程にも貫徹している」などという遠山の言が現実にはありえないことを認めざるをえなくなるのである。

上原も、遠山も現在のわれわれが暮らしている世界は、近代資本主義によって産み出された「単一の世界」であると主張する。この主張は、近代資本主義はその本質からして「世界的」であり、「世界市場」と「世界交通」を創りだすということだが、それと同時に、逆に「世界市場」と「世界交通」がなければ近代資本主義のほうも実存しえないことを意味する。常に拡大する国際市場と国際的分業体系、それに平行する国際的な支配従属関係を前提としてのみ資本主義は発展するのだと言い換えてもよい。要するに、近代資本主義は「世界システム」（＝「世界市場」と「世界交通」）としてのみ存在可能だということにほかならない。

この観点からすれば、「世界史の普遍的な法則にしたがって、封建制の内部にその崩壊の契機＝資本主義への萌芽が生れ、その契機が発展成長していって、ついに封建制を揚棄するにいたる」などといったことは、日本や中国や朝鮮はもちろんのこと、それが一見実現したかのように見えるイギリスにおいてさえ、じつは現実にはとうていありえない現象だったといわねばなるまい。イギリスにおける資本主義の発展は、一見すれば封建社会の内部から生じた自生的変化のように見えるが、それを引き起こしたのは決してイギリスの内部の要因などではない。一五世紀末の新航路開拓により、新大陸、ヨーロッパ、アフリカ、インド以東のアジアという巨大な「差異の体系」が一つに接続され、かつてなかった規模の「世界交通」と「世界市場」のシステム、「利潤を産む搾取の体系」の出現したことが、資本主義を可能にした最大の条件だったからである。

イギリスの資本主義化を用意したのはこれらの「外的要因」にほかならない。そもそも大塚久雄の『近代欧州経済史序説』にしても、「地理上の発見」と商業革命という共通の与件の下におかれながら、なぜスペインやポルトガル、オランダではなくて、ほかならぬイギリスが世界商業覇権をめぐる国際競争の最終的勝者となり、産業革命の発祥の地となったのか、といった問題設定の上に議論が組み立てられていたのではないか。

コロンブスとヴァスコ・ダ・ガマがいなければ、あるいはポトシ銀山の苛酷な労働に身をすりへらすインディオや奴隷船で砂糖プランテーションに運ばれてきたアフリカ黒人がいなければ、そもそも産業革命などありうべくもなかったのである。一六世紀以降、西ヨーロッパに生じたもろもろの変化は、この巨大な「世界システム」の「中心」に生じた変容現象であって、封建社会の内部に生じた矛盾の自己展開の産物などではありえない。資本主義は「世界システム」がなければ成立不可能であり、それなくして封建社会の内部から自生的に資本主義が発展しうるなどと考えること自体が、一個の謬論にすぎないのである。

江戸時代の日本においていかに商品生産の発達がみられようとも、それだけでは決して資本主義の発生にはいたらない。幕藩制的市場はその規模においても、その内容においても、どう逆立ちしても「世界システム」の代替物とはなりえないからである。「開国」がもっと遅れていれば、日本においても自生的な資本主義の発展がありえたのではないかと考えるのはそもそも無意味であり、「開国」によって「世界システム」の内部に取り込まれることそのことが、資本主義化にほかならなかったのである。それ以外のコースによる資本主義化は現実にはありえないと考えるべきであろう。

江口＝遠山の修正理論は、歴史の発展における諸社会の相互作用の問題に着目し、「独自の構造と発展法則を有する世界史」の概念を導入したまではよかったが、右の遠山の引用に見られるように、「一国史の発展法則」をもう一つの契機として是認し、維持し続けたところに、理論的な不徹底さがあり、どうみても折衷論といわざるをえない。しかしながら、「一国史の発展法則」までをも否定すれば、もはや「世界史の基本法則」＝「唯物史観の公式」の全面否定にいたるほかないわけだから、江口や遠山のよくなしうるわざではなかったというべきかもしれない。

おわりに

「世界の諸民族の歴史に普遍的な法則が、日本の封建制から資本制への移行過程にも貫徹して」おり、それゆえ欧米列強の「外圧」や「歪み効果」がなければ、封建社会内部に育まれたブルジョア的発展の萌芽がそのまま持続して行って、日本においても西欧と同様に、自生的に近代化、資本主義化の道にいたったにちがいないとする遠山の修正理論は、資本主義というものの歴史的性格を無視した謬論であり、江口、遠山の「一国史的発展法則」への批判は論理的徹底性を欠き、その折衷性ゆえに、逆に「一国史的発展段階論」の最後の砦となっているのではないだろうかというのが、私の考えである。

このようなことを言うと、それはアジアには自生的、内在的に近代化する能力がなかったと主張する「アジア的停滞性論」の変種ではないかと指弾されるかもしれない。しかしそうではない。

第二次世界大戦後、アジアの諸民族は次々と独立を達成し、一九世紀以来の植民地体制を崩壊させてしまった。上原専禄が共感をもって語った「あらたなる世界の構造転換」は現実化されたのである。もちろん、独立達成後も経済的には従属的地位を強いられ、南北問題の解決が大きな課題として残されているのはたしかであるが、しかしながら、既に述べたように、少なくとも東アジアの諸国、諸民族について言えば、経済的な面でも事態が大きく変りつつあるのを否定できない。「自力で近代化の能力がない」どころか、今や再版近代化論者から「近代化に成功したモデル地域」とみなされるまでにいたっており、二一世紀になれば、中国を中心とする東アジアが世界の経済発展の中心となるにちがいないとさえ予想されているのである。

もちろん、ここにいたるまでの苦難は並大抵のものではなかったにせよ、第二次大戦後のアジア・ナショナリズムの展開とここ十数年の間の東アジアの経済的発展とそれに伴う社会変化によって、「アジア的停滞性論」の存立根拠は完全に打ち砕かれたといってよい（だからといって、経済的発展の度合が東アジア諸国ほどではない地域が「停滞的」かと言えば、そんなことはない）。アジアに「近代化の能力がない」などといえば、現実を知らぬ大馬鹿ものと言われるのがおちであろう。

帝国主義や先進資本主義の及ぼす「歪み効果」がなければ、「世界の諸民族の歴史に普遍的な法則が、日本（アジア）の封建制から資本制への移行過程にも貫徹して」、遅ればせながらも、西欧と同様の近代化・資本主義化の道が実現されたにちがいないとの主張を否定し、「世界システム」なくして資本主義もなし、よって、「開国」（＝「世界システム」への編入）なくして、日本（アジア）の資本主義化もありえない、幕藩制社会が内部的変化によって、自生的に資本制社会へ移行するなどという理解はそもそもがナンセンスだと考える私の主張に対して、それは「アジア的停滞性論」と同類ではないかと疑問に思う人がいるとすれば、それはその人が、暗黙のうちに社会構成体の継起的交替を内容とする「一国史的発展法則」を以て「世界の諸民族の歴史に普遍的な法則」だと信じる立場に立脚しているからではないだろうか。その理論的な拘束を受けているからこそ、それを否定することが、アジアの歴史的発展の普遍性を否定することに直結するように思えるのである⁽⁶⁰⁾。

この法則がほんとうに普遍的な真理だとすれば、たしかにアジアにおいてはその法則どおりに事態が進むはずがないと言えば、アジアの特殊性を強調する「アジア的停滞性論」に道を開くことになるかもしれない。しかし私は、そもそもこの法則は少しも普遍性をもっておらず、イギリスにおいてすら成り立ちようがないと全面的に否定しているのである。前提そのものが成立しないと主張しているわけだから、アジアにおいて法則どおりに事態が進まないのは当然だと言ったとしても、それとがアジアの特殊性を強調することには決してならないはずである。

一社会の内在的な発展の可能性を信ずることと、その内在的な発展が「世界史の基本法則」の規定にしたがって進行するはずだと考えることとは、まったく別のことがらであり、「世界史の基本法則」を否定したからといって、ただちに「アジア的停滞性論」を認めることにはつながらない。それよりも、「世界史の基本法則」を全面的に否定することによってのみ、はじめてほんとうの意味で「アジア的停滞性論のアポリア」からの脱出が可能になるのだと考える⁽⁶¹⁾。

註

（１）小谷汪之『歴史の方法について』（東大出版会、一九八五年）参考文献案内。
小論のかなりの部分が、小谷のこの著書の叙述と重なりあっている。小谷の著書では、「アジア的停滞性論」の問題をマルクス主義の内部の問題としてではなく、西欧近代に特有の価値意識、歴史意識である「ヨーロッパとアジア」という「ねじれた二分法」と、その西欧近代の価値意識を奴隷的に身につけた近代日本の「エセ文明意識」の産物としてとらえるスケールの大きい議論が展開されているが、小論ではもっぱらマルクス主義史学の問題に限定した史学史的な議論にとどまる（そのわりには、厳密性と網羅性において欠けるところが多いのだが）。
上原専禄の評価をはじめとして、この書から学んだことは多く、いまさらながら屋上屋を架すようなことはつつしむべきかもしれないが、マルクス主義史学に「甘い」小谷の著書がすぐれて思想的・方法論的であるにたいして、小論はみすぼらしいまでに史学史的だというちがいに免じて、大目にみていただきたいところである。

（２）遠山茂樹『戦後の歴史学と歴史意識』（岩波書店、一九六八年）七八頁。

（３）谷川道雄編著『戦後日本の中国史論争』（河合文化教育研究所、一九九三年）一二頁。

（４）遠山前掲書三〇六頁。

（５）右同書二八三頁。

（６）「アジア的停滞性論」とその克服の問題が、戦後マルクス主義史学の内部の問題であったことについては、谷川道雄によっても「この停滞性論の批判というのが戦後の課題であったということが言われているわけです。この停滞論なるものがいったいどういうものなのかということを考えてみます時に、それはいろいろな従来の中国史研究に対しても当てはめられるのかもしれませんけれども、私はある面では主として、戦前までのマルクス主義的な中国研究や中国観に非常に鋭い批判が当てられたんではないだろうか、という気がいたします。いわばマルクス主義内部の反省であり批判でありました」と指摘されている（前掲『戦後日本の中国史論争』二七八頁）。

（７）成瀬治『世界史の意識と理論』（岩波書店、一九七七年）五二頁。

（８）右同書八二頁。

（９）前掲『戦後日本の中国史論争』二四頁。なお、表題からわかるように、この書物は戦後の日本の中国史研究の動向を主要な論争テーマごとに整理したものだが、「世界史の基本法則」の適用問題がどのような論争を呼び起こしたのかを知るうえで、はなはだ有益である。

（10）右同書一二頁。

（11）この羽仁論文の初出は『史学雑誌』四三巻、二、三、六、八号（一九三二年）で、一九四八年に三一書房より単行本として刊行された。なお、引用部分はすべて羽仁五郎『明治維新史研究』（岩波書店、一九五六年）による。

（12）羽仁前掲書八頁。

（13）右同書四〇頁。

（14）右同書四二頁。

（15）右同書四二頁。

（16）右同書一五頁。

（17）右同書五四頁。

（18）右同書八四頁。羽仁は、戦後「東洋における資本主義の形成」が単行本化された時に序文を寄せて、自身の主張をさらに明確にしている。

「東洋における近代資本主義は、東洋における近代以前なるもの、アジア的生産様式を、最後まで解決し得ない。けだし、近代資本主義自身が、帝国主義の段階に入るや、帝国主義の支配は、東洋におけるおくれた社会関係、近代以前的なるものによる支配をの維持を通じて、自己を維持するものとなっていたからである。（中略）かくて、東洋においても、この帝国主義との対立においてプロレタリアートが、資本主義によって形成されながら、資本主義の解決し得ない問題を解決するものとして、成長してきた」（同上書三九七－八頁）。

（19）右同書九五頁。

（20）右同書一一〇頁。

（21）服部の「維新史方法上の諸問題」は最初『歴史科学』誌に発表され（一九三三年）、のちに服部『明治維新史研究』（白揚社、一九三三年）に収録された。ただし本文の引用はすべて『服部之総全集』第四巻（福村出版、一九七三年）による。

（22）右同書四七頁。

（23）右同書四九頁。

（24）右同書五九－六〇頁。

（25）服部「日本史的世界と世界史的日本」（『世界』一九四七年一一月号）『服部之総全集』第一〇巻（福村出版、一九七四年）九七―九八頁。

（26）前掲『服部之総全集』第四巻、一七頁。

（27）丸山真男『日本政治思想史研究』（東大出版会、一九五二年）三七一頁。
この著名な書物の中心をなすのは戦時中に書かれた徂徠学に関する論文だが、その冒頭でヘーゲルを引用しつつ「シナ歴史の停滞性」を論じたことを、戦後になって一冊の書物にまとめる際に、「冒頭の中国の停滞性に対する日本の相対的進歩性という見地」は、現在から顧みれば不当といわざるをえないと述べて、自己批判したのであった。本文に引用した弁解の言はそれに続くものである。

儒教がすべてであった中国では儒教に対立し、それを乗り越えんとする思想は近代以前にはついに登場しなかったのに対して、日本では徂徠学という姿をとって、儒教の内部においてしかも儒教を否定せんとする「近代的思惟」の「萌芽」が江戸時代において出現したというのが、ここでの丸山の主張である。思想史と経済史の差はあれ、論理の構造としては服部の「幕末＝厳マニュ時代論」とほとんど同型の議論とみてよいだろう。それもそのはずで、そもそも丸山の研究モチーフそのものが、服部の問題意識と強い共通性を有するものだったからである。

丸山は戦後になって、「何故中国は近代化に失敗して半植民地化され、日本は明治維新によって東洋唯一かつ最初の近代国家になったかという課題を思想史の面から追求」することが自己の研究のねらいだったと回想しているが、丸山のこの課題はまさしく服部の発した問そのものにほかならない。問が同じならば、答えのほうも自然と同型にならざるをえないということだろうか。
ここで留意すべきは、表面にはあらわれてこないが、丸山の論文がマルクス主義とくに講座派理論の影響を強く受けていたという点であろう（丸山自身は決してマルクス主義者ではないが）。服部が経済史の面でやったことを丸山は政治思想史の分野で、よりアカデミックにやろうとしたのだともいえる。それならば、両者の議論が同型になるのも不思議はない。もっとも、服部の場合は「革命の必然性」とその性格を明らかにするために「幕末＝厳マニュ時代」論を提唱したのだが、丸山の場合には戦争権力に対する「近代的知性」の抵抗として、その近世政治思想史研究が書かれたのである。

対象とする時代やテーマはちがえども、石母田正の『中世的世界の形成』（一九四四年）も丸山のモチーフと同型の問題意識が生み出した作品とみてよい。「なぜアジアでは日本のみが中世的世界（＝封建制）を成立せしめたのか」という問題を立てて、石母田は武士団形成の過程と意義とを考察した。中国では古代的な共同体的秩序の制約のために、在地領主制が発展せず、そのため古代的デスポティズムが中世的封建制にとってかわられることがなかったが、日本においては新興の階級である在地領主が、古い同族組織から分離して独自の族的団結（＝武士団の形成）をなすまでに成長し、それによって中世への道が切り開かれた、というのが石母田の日中比較論の結論であった（石母田『中世的世界の形成』東大出版会、一九五七年、一五四頁）。

戦後になって石母田は、この封建制成立の有無に関する日中の差異が、その後の両者の歴史的発展の差異（「明治維新においてなぜ日本が中国やインドと同じように植民地化されなかったか」）をもたらした「一つの源泉である」と指摘している（右同書三六六頁）。つまり石母田は、例の問に対して、中世にまで遡ってその由来を考えるべきだとしたのであった。

石母田の『中世的世界の形成』が「アジア的停滞性論」を理論的前提におくものであることは、やはり戦後になって石母田自身が認めている（「封建制成立の特質について」『思想』一九四九年八月号）。そこで石母田は、中国には封建制が成立しなかったとする自分の旧稿は、「マルクス主義歴史家にとっても支配的であった「アジアの停滞性」に関する理論が根本をなして」おり、「中国社会の歴史の停滞性を主張する伝統的見解にしたがい、それを根拠づけようとした」点で誤謬をおかしていたと、自己批判した（前掲『中世的世界の形成』四六二、三頁）。

丸山にしても石母田にしても（あるいはこれに大塚久雄や高橋幸八郎を加えてもよいかもしれないが）、戦時下における数少ない「抵抗の営為」が、共通して「アジア的停滞性論」の立場に立っていたことは、戦争期においてそれがもっぱら侵略のイデオロギーとして機能していたことを考えあわせると、非常に興味深い事実といわねばなるまい。このことは「アジア的停滞性論」の問題がもつ根の深さを物語るものといえよう。

（28）竹内好「日本人の中国観」『展望』一九四九年九月号、のち竹内『現代中国論』（河出書房、一九五一年初版）所収。本文の引用は『竹内好全集』第四巻（筑摩書房、一九八〇年）九－一〇、一二頁。

（29）遠山前掲書七八頁。

（30）右同書七四頁。

（31）成瀬前掲書七〇頁。

（32）遠山前掲書一四五頁。

（33）遠山は、この大会の討論において「日本の独立、中国の半植民地化、この差は何に由来するかという問題のたてかたそのものが、中国のおくれた側面を追究するという偏りを生みがちであることも、指摘された」と記している（右同書一四四頁）。

（34）西嶋定生『中国経済史研究』（東大出版会、一九六六年）七五一頁。なおこの書の「序文」においても、戦後初期の研究の出発点が、「われわれの中国史研究のばあいにおいて、自己の存在を歴史的に位置づけようとする立場から、まず必要とされたものは、停滞性理論という呪文からの解放であった」とふりかえられている（二頁）。

西嶋の「停滞性理論克服」の試みは、古代史の分野においては、秦漢時代をもって奴隷制社会とみなす中国型奴隷制論となってあらわれた（西嶋「古代国家の権力構造」一九五〇年歴史学研究会大会報告）。東晋次はこれを「世界史発展の基本法則による「アジア的停滞論」克服の課題を、古代奴隷制社会の中国的特殊性の解明によって果たそうとしたもの」と評価している（前掲『戦後日本の中国史論争』二九頁）。しかし、西嶋の中国奴隷制説は論争を引きおこし、奴隷制範疇の適用の可否をめぐって批判が寄せられた。その結果、西嶋は自説を撤回し、秦漢帝国を皇帝権力が自営農民を個別人身的に支配する古代的専制国家であったとした。谷川道雄は「西嶋の説の変更は、戦後の中国史研究が世界史的普遍性の強調から、中国史的特殊性の重視へと変貌してゆくことを、象徴的に表した事件であった」と述べている（同上書二〇頁）。「世界史の基本法則」が、最初信じられていたような普遍性をもたぬことがあらわになったのを象徴する事件ともいえよう。

（35）田中正俊『中国近代経済史研究序説』（東大出版会、一九七三年）一三頁。

（36）西嶋「十六・十七世紀を中心とする中国農村工業の考察」（『歴史学研究』一三七、一九四九年）、のち西嶋前掲書に所収。

（37）岩井茂樹「明清時期の商品生産をめぐって」谷川道雄編前掲書二四一頁。

（38）西嶋前掲書八六五頁。

（39）羽仁は前掲論文で、中国前近代社会における資本主義的発展の困難さを次のように述べていた。

「農村からの極度の収奪により、官僚および商人高利貸資本が繁栄をくりかえしたのみで、官僚・封建領主・商人高利貸の三位一体的搾取支配は徹底的に生産力発達に対する桎梏としてのみはたらき、農村から放逐せられた人口は何処にも収容せられず農村に追い返されて農村人口過剰の形のもとに農村はいよいよ加重する圧迫の下に疲弊し荒廃し、進歩的な土地開拓乃至地主経営或は工業の発達への道はまったく開かれないでいた。かくて農村の窮乏と商人高利貸資本の異常な発達とが官僚国家支配の下における特殊なる生産発達不均衡を成して、中国社会の停滞と循環との特徴を成していた」（羽仁前掲書六三頁）。

（40）大塚久雄『近代欧州経済史序説』上巻（日本評論社、一九四六年）一四〇頁。

（41）右同書一五四頁。

（42）田中前掲書一四－二〇頁。

（43）成瀬前掲書五頁。

（44）江口朴郎「歴史学における近代主義の批判」（一九四九年）『江口朴郎著作集』一（青木書店、一九七四年）一四四頁。

（45）江口「帝国主義時代における発展段階」（『歴史学研究』一四四号、一九五〇年）『江口朴郎著作集』二（青木書店、一九七五年）六三－六六頁。

（46）田中前掲書四六頁。

（47）江口前掲書六三頁。

（48）右同書六七頁。

（49）右同書六八頁。

（50）右同書六二頁。

（51）梶村秀樹「東アジア地域における帝国主義体制への移行」冨岡倍雄、梶村秀樹編『発展途上経済の研究』（世界書院、一九八一年）五九頁。

（52）一九七〇年代には「世界史の基本法則」の本来の理解（＝スターリン主義的理解）が、すでにマルクス主義の歴史家によって否定・棄却されていることを、アト・ランダムにいくつか例をあげて確認しておこう。

「すでに見てきたように、近年における時代区分論の進展にとって、もっとも重要な理論問題は、第一に、一系列の発展段階論とそれへの一国史への直接的適用に対する反省とその克服であった。（中略）一系列・単一形態の発展段階論＝いわゆる「基本法則」がそのまま一国史の発展法則であるとする誤りから解き放たれてみると、（略）」永原慶二「時代区分論」『講座日本歴史』九（東大出版会、一九七一年）三一頁。

「歴史の事実から見れば、この五段階が諸地域・世界諸民族が必ず経過すべき諸段階であるという考え方には、あまりにも難点が多い。（中略）マルクスは世界史的に典型的な事象を的確に選んで普遍的な発展段階として措定しているのであって、この段階を諸民族がどれも必ず経過すべき段階として図式化しているのではない。」斎藤孝『歴史と歴史学』（東大出版会、一九七五年）一三七頁。

「生産様式の継起的移行の法則についてみると、この法則が世界史過程の総体についてのみ妥当するものであって、世界史に登場するすべての民族ないし社会的有機体のそれぞれがかならず経過すべき段階論という意味で合法則性をもつと考えてはならない。」阪東宏「世界史認識の理論」『講座史的唯物論と現代』（青木書店、一九七八年）一一頁。

（53）上原専禄「世界史像の新形成」『世界史講座』月報１（東洋経済新報社、一九五四年）（のち上原『世界史像の新形成』創文社、一九五五年に所収）上原専禄著、上原弘江編『上原専禄著作集』八（評論社、一九九三年）五七頁。

（54）成瀬前掲書一五四－一五五頁。

（55）遠山「世界史把握の視点」幼方直吉、遠山茂樹、田中正俊編『歴史像再構成の課題』（御茶の水書房、一九六六年）五－六頁、『遠山茂樹著作集』第四巻（岩波書店、一九九二年）三〇九頁。

（56）『遠山茂樹著作集』第四巻、三一〇頁。

（57）右同書三一一頁。

（58）遠山は一九五一年に『明治維新』（岩波書店）を刊行したが、そこでは「世界史の基本法則」に忠実に、明治維新の内的契機をより重視する立場から、維新のはじまりを天保十二年の幕政改革におき、国内の発展段階が、ブルジョワ革命をうみだすほどには達していなかったが、絶対主義をうみだすほどにはなっていたとして、明治維新＝絶対主義成立論が提出されていた。
さらに、「同じ後進国でも、それぞれの国の近代化の内的必然性―封建制崩壊とその過程に生れるブルジョア的発展―の成熟度の差に従って、その国際的条件に対応する仕方は異なる」として、「わが幕末社会が開国以前になお微弱ではあるが、自生的に絶対主義に転化する力をもちえたことが、ほぼ同じ欧米資本主義の圧力の下にも、中国と異なる運命を切り拓きえた所以であった」（四五―四六頁、『遠山茂樹著作集』第一巻、岩波書店、一九九一年、二九頁）と、「日中近代化の差異に関する問」に対して、基本的には服部と同様の「内因説」が主張されていた。

ところが、一九七二年に右の『明治維新』が改版された際に、右にふれた日中の差異をもたらした内的条件に関する記述はすべて削除されてしまった。遠山は、修正理論の立場から「内因説」は「アジア的停滞性論」につながるものとして、自説を撤回したわけである。それに伴い、「明治維新史をもって、世界資本主義体制の一環に組みこまれることによって、促進されかつ規制された絶対主義の成立過程と理解する立場から」（前掲『遠山茂樹著作集』第一巻、三三九頁）、明治維新のはじまりを天保期に求める旧説も放棄され、ペリー来航時をもって維新のはじまりとする説が採用されたのであった。

（59）遠山茂樹『明治維新と現代』（岩波書店、一九六八年）四三、四七頁。

（60）「資本主義が最初西欧を中心にして発達し、非西欧地域すなわち日本や中国、朝鮮ではじまらなかったのはなぜか」あるいは「もしも世界資本主義の外圧がなければ、日本や中国、朝鮮においても西欧におけると同様に、自生的に資本主義へ転化する可能性があったのか、どうか」という問題と、「日本、中国、朝鮮が世界市場・世界資本主義・世界システムに他動的に組込まれて以降、それぞれの国の内部での資本主義化のちがいは何に由来するのか」という問とは、質的に異なっていることを明確に認識しなければならない。
前者は「世界システム」の発生・形成の問題であり、後者は「世界システム」の内部に従属的に繰込まれた社会・国家の内部変容の問題である。両者は本来全然異なる問題であるはずだ。マルクス主義の「世界史の基本法則」を擁護する立場にたつかぎり、本質的にこの両者の違いというものが認識できないのではないかと思われる。そこからすべての混乱が生れるといってよい。

そもそも「世界システム」形成の中心にならなかったからといって、その社会が中心を形成した社会に比べてより「停滞的」などとは言えないはずである。アジアに限って言えば、少なくとも一八世紀初めまではヨーロッパに比べて、文化的に遅れていたとは誰も言えないであろう。七世紀、一〇世紀、一四世紀と、それぞれの時期についてイスラム圏、インド、中国とヨーロッパを比べてみれば、わかることである。「進んだヨーロッパ、遅れたアジア」という図式そのものが、一九世紀すなわち「近代」の産物なのである。

（61）近代を「単一の世界」の形成の過程と把える立場、言い換えれば「近代世界形成論」的な観点から、東アジアと日本の近代世界への編入とそれに起因する東アジア世界の解体の過程を国際関係の変容という視角から分析、叙述したものとして拙稿「東アジアにおける国際関係の変容と日本の近代―〈中華帝国体制〉の解体と〈近代帝国主義支配体制〉の成立―」『日本史研究』二八九（一九八六年）がある。興味のある方は参照されたい。

古屋哲夫編『近代日本のアジア認識』京都大学人文科学研究所,1994に掲載。緑蔭書房より同名の書物として再刊、1996。

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戦後マルクス主義史学とアジア認識

―「アジア的停滞性論」のアポリア―

永井 和

はじめに

一 マルクス主義史学と「アジア的停滞性論」

二 初発の形態―羽仁五郎と服部之総―

三 「アジア的停滞性論」のアポリア

四 歴史学研究会と「世界史の基本法則」

五 中国史研究者の模索―西嶋定生―

六 江口朴郎の修正理論

七 遠山茂樹の「世界史像の再構成」